田中山相即寺|関東百八地蔵霊場
相即寺の概要
浄土宗寺院の相即寺は、田中山と号します。相即寺は、忍譽(天文21年寂)が開山となり天文15年(1546)に創建、小田原北條家家臣の帰依を受けていたことから小田原城落城に関し、信徒283名を供養するために造立された百五十体地蔵尊が延命閣地蔵堂に祀られています。江戸期には寺領10石1斗の御朱印状を受領、また万目供養仏と呼ばれる地蔵菩薩は八王子市文化財に指定されています。関東百八地蔵霊場102番です。
山号 | 田中山 |
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院号 | - |
寺号 | 相即寺 |
住所 | 八王子市泉町1132 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
相即寺の縁起
相即寺は、忍譽(天文21年寂)が開山となり天文15年(1546)に創建、小田原北條家家臣の帰依を受けていたことから小田原城落城に関し、信徒283名を供養するために造立された百五十体地蔵尊が延命閣地蔵堂に祀られています。江戸期には寺領10石1斗の御朱印状を受領、また万目供養仏と呼ばれる地蔵菩薩は八王子市文化財に指定されています。
新編武蔵風土記稿による相即寺の縁起
(下一分方村)
相即寺
小名四ツ谷にあり、浄土宗、瀧山大善寺の末、田中山と號す、もとは東源山と號せしと云、寺領十石一斗餘の御朱印を賜へり、天文十五年八月十五日この寺を草創せり、開山をば忍譽と云、天文廿一年四月十九日寂す、本堂八間四方、本尊彌陀坐像長三尺、當寺の過去帳は開闢のときよりのものなりとて、いと古色なり、されば文字も讀得がたきところあり、その中北條氏の家臣を多くのせ、且天正十八年八王子城に於て討死せし人々の法謚を記したり、軍記の考證ともなるべき者なれば、左に記せり、
(104名の法謚省略)
鐘樓。五尺四方鐘の大さ二尺三寸ばかり、
地蔵堂。門を入て左にあり、三間四方、石をもて刻める石地蔵なり、この外本堂の正面に銅の彌陀あり、坐像にて、臺座共に長五尺許、堂を構へず、俗に濡佛と云ものなり、(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による相即寺の縁起
相即寺(下壱分方村―泉町一、一三二)
小字四ツ谷にあり、田中山と号す。しかしもとは東源山と号したという。江戸時代寺領一〇石一斗の御朱印があった。天文一五年(一五四六)八月一五日の草創、開山は忍誉(天文二一年 一五五二 四月一九日示寂)である。同寺所蔵の過去張は開闢以来のものといわれ、その中北条氏家臣を多く載せ、特に天正一八年(一五九〇)八王子城において討死した人々の法名を連記していることが新編武蔵風土記稿にも詳記されているが今はない。なお、珍らしき百体地蔵を奉安した地蔵堂がある。(「八王子市史」より)
相即寺所蔵の文化財
- 万目供養仏
- 堂内百五十体地蔵尊(八王子城落城の時、283人の相即寺縁の戦死者供養)
- ランドセル地蔵尊
万目供養仏
この万目供養仏は銅製で、台座の敷茄子の正面に鋳出された銘によって一般にこの名で呼ばれているが、地蔵菩薩である。
像高一一六cm、膝張り八八cm、台座を含む総高は一九〇cmである。像全体は、五枚の鋳型からできている。
仏師は柚木落合の田中播磨義知、鋳物師は、横川町滝原の加藤甚右衛門白鎧で、この地方の有名な梵鐘造りである。(八王子市教育委員会掲示より)
相即寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」