鶴壽山松門寺|元禄年間寺町へ移転、寺領7石の御朱印状
松門寺の概要
曹洞宗寺院の松門寺は、鶴壽山と号します。松門寺は、開山僧は不詳ながら延徳元年(1489)に創建、子安にあったといいます。その後、中澤田左衛門建吉が開基、心源院8世禅室祖参(慶長15年1610年寂)が開山となり中興、元禄年間(1688-1704)以降に寺町へ移転したといいます。江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 鶴壽山 |
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院号 | - |
寺号 | 松門寺 |
住所 | 八王子市片倉町212 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
松門寺の縁起
松門寺は、開山僧は不詳ながら延徳元年(1489)に創建、子安にあったといいます。その後、中澤田左衛門建吉が開基、心源院8世禅室祖参(慶長15年1610年寂)が開山となり中興、元禄年間(1688-1704)以降に寺町へ移転したといいます。江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による松門寺の縁起
(寺町)松門寺
境内御朱印地、宿の坤の方にあり、昔は子安山と號せしが、後年ここに移りて、鶴壽山と改號すと云、本尊虚空蔵免として七石の御朱印を賜ふ、禅宗曹洞派、下恩方心源院の末寺なり、延徳元年の起立にて、中興の開基は中澤田左衛門建吉なり、この建吉は寛永年中當所十八代官の一人たりしと云へり、その時の開山を禅室祖参と稱す、本山心源院の第八世にして、慶長十五年七月廿四日寂せり、本堂七間半に六間、本尊虚空蔵の木像、長六寸なるを安置す、佛師安阿彌が作なり、半鐘一口あり、その銘に元禄十一寅年二月武州多磨郡横山郷寺町子安山松門寺什物なりとみえる、これによれば當所へ移轉せしは、元禄の後なることあきらけし。
釋迦堂。本堂に向て左にあり、二間に三間、木の坐像、長一尺二寸許なるを安。
稲荷社。表門の側にあり、小社なりこの社は昔十八代官の内の屋舗にありしを、後ここに移せしなりと。(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による松門寺の縁起
松門寺(寺町―寺町二八)
昔は子安山と号したが現地に移ってから鶴寿山と改号した。江戸時代には本尊虚空蔵領として七石の朱印地を賜わった。延徳元年(一四八九)の創立、中興開山は心源院第八世禅室祖参である。昭和二〇年八月の戦災で堂宝一切焼失したが、戦前同寺の殿鐘の銘によれば
「元禄一一寅年二月武州多磨郡横山郷子安山松門寺什物」
と刻されていたから、子安から当所寺町に移転したのはおそらく元禄(一六八八~一七〇四)以後と思われる。戦後、同寺第二五世立花俊道によって本堂庫裡等が再建された。俊道は佐賀県の人、曹洞宗大学を卒えてセイロンのスマンガラ大僧正会下および英国オックスフォード大学に学び、ドクトルの学位をえて帰国し、駒沢大学長となった。パリー語仏数学の権威で、英文「仏教倫理」「巴利語文典」その他の多くの著書があり、昭和三〇年四月二日遷代、世寿七九才であった。(八王子市史より)
松門寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」