深澤山心源院|八王子三十三観音霊場、大石遠江守定久開基
心源院の概要
曹洞宗寺院の心源院は、深澤山と号します。心源院は、大石遠江守定久(心月斉英厳道俊居士)が開基となり、季雲永嶽(大永6年1526年寂)が開山、年不詳ながら江戸幕府より寺領20石の御朱印状を受領、末寺15ヶ寺を擁する中本寺格の寺院です。
山号 | 深澤山 |
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院号 | 心源院 |
寺号 | - |
住所 | 八王子市下恩方町1970 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
心源院の縁起
心源院は、大石遠江守定久(心月斉英厳道俊居士)が開基となり、季雲永嶽(大永6年1526年寂)が開山、年不詳ながら江戸幕府より寺領20石の御朱印状を受領、末寺15ヶ寺を擁する中本寺格の寺院です。
新編武蔵風土記稿による心源院の縁起
(下恩方村)心源院
境内五千六百七十五坪、御朱印寺領の内なり、河原宿にあり、深澤山と號す、禅宗曹洞派、遠州榛原郡高尾村石雲院の末にて、九十年に一度本山の輪番をつとむる寺なり、寺領二十石の御朱印を賜ふ、開山季雲永岳、大永六年二月十五日寂す、開基は大石遠江守にて、法謚を英岩道俊といふ則石見守憲重が父にて、初め源左衛門と稱せし人なり、この道俊がことは浄福寺及び瀧山の條にもしるせるなり、
本堂。十二間に七間半、山門を入て正面にあり、本尊釋迦の木像長八寸許なるを安す、
開山堂。本堂の坤の方にあり、四間に三間、
鐘樓。九尺四方、本堂に向て左の方にあり、延寶七年鑄造の鐘にて、口の徑り二尺五寸、高三尺四寸餘也、
僧寮。本堂に向て左の方にあり、八間半に五間半、
山門。五間に二間半、本堂の前にあり、聖観音及十六羅漢の像を安す、
惣門。二間四方、
黒門。境内の入口にあり、兩柱の間九尺なり、
辨天社。惣門の西にあり、小社にて九尺四方の上屋を立つ、神體は木の坐像にして、長五寸、左右に十五童子の像を安置す、
白山社。辨天社の左にあり、小社、境内の鎮守とするところ也、
秋葉社。本堂に向て左の山上にあり、本社は二間四方にて前に拝殿を建つ、當社は河原宿の鎮守にして、例祭七月十七日に執行せり、(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による心源院の縁起
心源院(下恩方村―下恩方町一、九七〇)
昭和二〇年の戦災によって、堂塔伽藍の一切を焼失したが、江戸時代から戦災前までは、本堂(一二間に七間半、山門をはいって正面にあり、本尊釈迦木像にて丈八寸を奉安)、開山堂(本堂の裏にあり、四間に三間)、鐘楼(九尺四方、本堂に向って右にあり、延宝七年鋳造の鐘、口径二尺五寸、高三尺四寸余)、山門(五間に三間半、本堂の前に有り、聖観音および十六羅漢像奉安)、秋葉社(本堂に向って左の山上にあり、本社は二間四方で前に拝殿を建つ、当社は河原宿の鎮守で、例祭は八月一七日、焼失前の大般若経は当社のために奉納されたものであった)および庫裡があったが、ついに秋葉社以外本尊などを初め過去帳・古記録の一切をあげて焼失したのは惜しむべき文化財の損失であった。当社は深沢山と号し、江戸時代御朱印寺領の内、境内五、六七五坪、文明一六年(一四八四)の創立、遠州(静岡県)棒原郡高尾村石雲院末、九〇年に一回本山輪番の寺で御朱印寺領二〇石、開山季雲永嶽(大永六年 一五二六 二月一五日寂)、開基大石遠江守定久(心月斉英厳道俊居士)である。(「八王子市史」より)
心源院の末寺
心源院所蔵の文化財
- 小谷田子寅の碑(市指定史跡)
小谷田子寅の碑
小谷田子寅は千人同心で、宝暦十一年(一七六一)四月四日、武州多摩郡川口村(現八王子市川口町)に生まれ、名を小谷田権右衛門昌亮という。
幼くして父を亡くしたが、勉学に励み天文学・洋学に詳しく、特に医学に明るく、薬を乞うもの、診断を求めるものがあとをたたず、民衆に慕われたという。
この善徳を称えるため、千人同心切手の碩学といわれた塩野適斎が撰文し、植田孟縉が揮毫ならびに刻字したきわめて貴重な碑である。
碑面には三百八十六文字が刻んである。(八王子市教育委員会掲示より)
心源院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」