福壽山慈眼寺|大正天皇奉悼を記念して鋳造した梵鐘
慈眼寺の概要
曹洞宗寺院の慈眼寺は、福壽山と号します。慈眼寺は、高乗寺第七世吉洲充豚(元亀3年1574年寂)が開山したといいます。当寺の梵鐘は、多摩御陵の治定に際して大正天皇奉悼を記念して鋳造したもので、戦時中の金属類応召にも供出を免れたものだといいます。
山号 | 福壽山 |
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院号 | - |
寺号 | 慈眼寺 |
住所 | 八王子市長房町1491 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
慈眼寺の縁起
慈眼寺は、高乗寺第七世吉洲充豚(元亀3年1574年寂)が開山したといいます。当寺の梵鐘は、多摩御陵の治定に際して大正天皇奉悼を記念して鋳造したもので、戦時中の金属類応召にも供出を免れたものだといいます。
新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起
(下長房村)慈眼寺
除地、四段六畝十四歩、小名三軒在家にあり、禅宗曹洞派、上椚田村高乗寺末、福壽山と號す、開山吉州寂年を傳へず、本尊観音木の立像長一尺五寸、本堂六間に三間半、南向。(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による慈眼寺の縁起
慈眼寺(長房村―長房町一、四九一)
福聚山と号する。江戸時代除地四反六畝一四歩、小字三軒在家にある。開山は高乗寺第七世吉洲充豚で、元亀三年(一五七四)八月二八日示寂である。弘治元年(一五五五)の草創であるが開基は不詳である。本尊はめづらしい観音立像、信者にはそれぞれの応機の薬療を教える仕組みになっていた。昭和二〇年八月の戦災で伽藍一切を焼失したが、昭和三二年一一月本堂庫裡が再建された。同寺では現住大聯興運(第三八世)が戦災前の昭和初期、多摩御陵の治定を機として大正天皇奉悼記念の大梵鐘鋳造を発願し、勝田陵墓監外名士二〇〇余名の賛助の下三多摩八カ市町村にわたる三、〇〇〇余名の協力をえて、昭和三年一二月二五日鋳造された。戦時中の金属類応召については、皇室に関係あり、また大正年間の代表的名鐘たるのゆえをもって幸いにも供出を免れた。該梵鐘の鋳型作者は後藤雲正、丈五尺七寸口径三尺三寸、重量四五〇貫で竜頭古代竜巻尾、十六菊座、百八擬宝珠、撞座四ヵ所、半面に竜および聖観音・王女三体を浮刻の姿に刻み、武蔵野の野菊をちりばめ、すこぷる芸術味ゆたかなものである。鐘銘は有名な曹洞宗大本山総持寺貫首新井石禅の撰である。(八王子市史より)
慈眼寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 八王子市史
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」