龍雲山高乗寺|武相卯歳観音霊場四十八ヶ所、八王子三十三観音霊場
高乗寺の概要
曹洞宗寺院の高乗寺は、龍雲山と号します。高乗寺は、片倉城主永井大膳大夫高乗(応永9年1402年寂)が開基となり、臨済宗の名僧・法光圓融禅師峻翁令山大和尚が応永元年(1394)創建、その後宗旨を曹洞宗に改め、永正2年(1505年)通庵浩達大和尚が開山したといいます。天正19年(1592)には寺領十石の御朱印状を拝領、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所18番、八王子三十三観音霊場19番です。
山号 | 龍雲山 |
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院号 | - |
寺号 | 高乗寺 |
住所 | 八王子市初沢町1425 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 武相卯歳観音霊場四十八ヶ所18番、八王子三十三観音霊場19番 |
高乗寺の縁起
高乗寺は、片倉城主永井大膳大夫高乗(応永9年1402年寂)が開基となり、臨済宗の名僧・法光圓融禅師峻翁令山大和尚が応永元年(1394)創建、その後宗旨を曹洞宗に改め、永正2年(1505年)通庵浩達大和尚が開山したといいます。天正19年(1592)には寺領十石の御朱印状を拝領、多摩地区の名刹寺院です。また、創建の峻翁令山禅師は、武蔵國秩父郡出身で寂後に勅号(天皇よりの法名命名)を賜り法光円明国師と呼ばれた高僧名僧で、山田兜率山廣園寺、深谷常興山国済寺、児玉郡威音山光厳寺、渋谷古碧山龍巌寺などを開山しています。
新編武蔵風土記稿による高乗寺の縁起
(原宿)高乗寺
境内除地、三十七萬三千餘坪、小名初澤にあり、龍雲山と號す、禅宗曹洞派、上州甘楽郡蛇井村最興寺の末也、天正九年十一月寺領十石の御朱印を賜へり、境内の延は東西一理ばかり、南北には廣狭あって二町より十町に至れり、東は下椚田村小名狭間の峯に界ひ、南は村内小名榎窪・案内・堂ヶ尾等の峯に限り、西も堂ヶ尾の峯を界とし、落合案内に隣れり、北は総門の外川原ノ宿におよべり、東西南の三面皆山につらなり、ただ北の方のみ一路漸平らかにして、川原ノ宿に達す、寺は境内入口総門より九町を経て谷間なれど方一間ばかり高燥の所にあり、古は境内字梅澤天神山の下にありしが、山奥なるを厭ひて、応永の中比今の所に引移せしと云、昔この地を花澤と呼しよし山間渓流ありて、花木水草自ら春夏の花に富りけるをもて名けしならんに、その語路ちかきにより、いつしか訛り唱へて初澤とは呼るなるべし、古は境内に塔頭七宇、百姓二十九軒迄ありしとぞ、今は衰廃して塔頭一宇、農家五軒のみなり、抑當寺の草創は、臨済の正傳法光圓融禅師峻翁令山が、開闢する處にて、翁は応永十五年三月六日化せり、爾しよりその法燈を垂るるや、星霜百餘年にして、更に臨済を改めて曹洞派となれり、即開山の僧は通庵活達、永正十五年八月四日寂す、是より宗脈綿々として今に及べりと云、開基は長井大膳大夫高乗、応永九年七月廿九日卒す、高乗寺殿大海廣大禅定門と法諡せしに、直に寺號とせり、室家は花澤院殿月窓貞心大禅定尼と諡す、その卒年は傳へず、中興開基は小宮山民部とて、もと甲州の士にて、天正中の人なり、寛延二年佐竹右大夫義明の母儀、故あって施主となり、當寺を随意會法幢の地となしぬと云、末寺十ヵ寺をすべり、客殿八間に十二間、卯辰に向ふ、本尊白衣観音木の坐像にて、長一尺五寸ばかり、これは永禄の比布施大弐と云人の護持佛なりしを、ここに寄附すとぞ、左右には文殊菩薩・普賢菩薩木の坐像にて、長一尺ばかりなるを安せり、別に開山の木像あり、又出山釈迦の素佛立身にて長九尺三分、青木主水が自作なるよし、外に地蔵一軀あり、同人老母の菩提の為に造立せしものなりとぞ、この青木氏は長井高乗の一族なるや、その何人たることを詳にせず、元禄年中丙丁の災に罹りて、堂舎僧房山門等その餘寺寳まで烏有せりと云、今続に蔵する所の寺寳左の如し、
太閤秀吉文書一通
禁制 武州くぬ木田郷高乗寺門前共ニ
軍勢甲乙人等濫妨狼藉事
放火事
対地下人百姓、非分之儀申懸事
右條々堅令停止説、若於違犯之輩者、忽可被處厳科者也
天正十八年四月日
天正十八年六月前田利家、この頃は羽柴筑前守と號し、今の元八王子城攻の主将たりしに、軍勢四方より此境内に取籠り、小屋をしつらひ陣しけるに、小屋一軒に永楽銭四十文積り、山上へ出しけるに、この永楽銭九十三貫文ありけるとぞ、費用につかひ猶残り四十九貫文ありしを以て、當寺の山門及び十六羅漢を新築造せしに、時の檀那小宮山新右衛門尉も、永楽銭三貫文を寄附せりと寺記に載たり、利家が出せし文書左の如し、是を境内字堂ヶ尾にたてしよし云つたへり。(利家文書中略)
慶長七年十月大久保石見守、長安より左の如く材木所望によって、境内字二枚畠にて七尺廻り槻一本、同く池ノ澤にて八尺五寸廻りの櫻一本、六尺五寸まはりの松一本、同じく堂ヶ尾澤にて杉丸太十六本、以上十九本を送りけるに、同年十二月使者松本伊兵衛を以、銀杏の紋付たる臺子一脚、青螺鞍一口、鐙一口謝禮として贈れりと、寺記にみえたり、
香筐一。径り五寸三分、深さ一寸二分、底に朱の印あり、栗色に金の蒔絵あれど、そのさますりはげて見え分たず、内は黒ぬりにて、いかにも古色のものなり、今蓋は失へり。
水晶数珠一。右二品は天正二年北條氏直より血脈の布施として、中嶋豊前守を使者として贈れりと寺記に見えたり。
衆寮。本堂に向ひ左の方にあり、北向、昔山門に安置せし、十六羅漢の木像各一尺ばかりなるあり。
庫裏。同く右の方にあり、土蔵を造込にす。
裏門。庫裏の前にあり、長屋造なり。
鐘楼。本堂の前にあり、二間四方、慶安元年鋳造の鐘をかかぐ。
山門趾。同前、元禄中焼失の後、再建に及ばず。
総門。境内入口にあり、二間四方丸柱六本建にて扉なく、いと古色なりと。
制札。総門に向ひて右の傍にあり、其文は天正十八年太閤秀吉より出せしものにて、前にみえたり、左方に囲一丈二尺許の楓樹あり。
住吉社。総門を入て右の方高丘の岩上にあり、小祠にて東向、上屋六尺四方、神体白幣。
辨財天社。客殿の南方にあり、北向、小社千人頭窪田忠兵衛が先祖越後守忠廉が勧請する所なり。
白山社。客殿と相対してあり、小祠、本地十一面観音を安す。
天満社。字梅澤にあり、廃祠、其跡に古松あり。
妙義社。字城山の上にあり、小祠、乾向。
愛宕社。客殿の東山上にあり、石の小祠。
山王社。総門を入一町許左の方にあり、小祠、南向、神体白幣。
金比羅社。字榎窪にあり、小祠、同上、艮向。
塔頭
日陽軒。総門を入三町許右の方丘上にあり、二間に二間半南向、本尊弥陀を安す、木の坐像、長八寸ばかり、作佛のよし云傳ふ、そのかみ開基長井高乗の一族荒木八内吉次と云人建立せしとぞ、文明の頃まで字堂ヶ尾にありしを、ここに移せしよしを寺記に見えたり。
西光院。本寺より北の方にて、丘上にあり。
清流庵。同上。
天桂院。総門をいりて右の方にあり。
雪江庵。同く左の方にあり。
慈眼庵。本寺の南の方にあり、以上六ヶ寺は廃跡のみあり弘治年中北條氏より、あらためて指置となりし時は存せりと云、その頃の古き図に見えたり、いつの頃廃せしや年代はつたへず。
城墟。
総門の東の方なる山を土人城山とよべり、登り二町ばかり、その頃は平坦にして乾の方より巽の方にわたり、長半町あまり、幅は廣狭あれど、大抵十二三間ばかり、北の隅には妙義の小祠あり、頂より巽の方へ数十歩を下り、曾根の高所をし、道を通ぜしところあり、坤方の山面中腹に、七間を隔てて、その幅三間許にきりひらけたる所二段あり、乾の方にも切通しと覚しき處あり、それより少し下りて馬冷し場と唱へ、四五歩瓜地あり、されど水ある所とも見えず、艮の方はやまくづれていと嶮しくそばたてり、按にこのところ物見櫓など構へしにや、居館は艮の方や山の麓小名狭間にありしならんと云へど、何れの人のここに住せしや傳へを失せり、一説には往昔椚田氏の人居住すともいへり、椚田は横山党より出で、横山権守時重の四男、太郎重兼はじめて此椚田に居を構へしより、その子次郎廣重代々この地に住せしゆへ、子孫椚田を氏とせし事ものにみえたり、また一説にはこの寺を開基せし、長井大膳大夫高乗が、居城を構へしあとなりと云へど、今よりかんがふべき由なし。(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による高乗寺の縁起
高乗寺(上椚田村―初沢町一、四二五)
高乗寺は三多摩地方の曹洞宗の名刹で、いわゆる多摩八大寺の一つである。八大寺とは北多摩郡久留米村門前浄牧院・府中市高安寺・由木永林寺・町田市小山田大泉寺・青梅市根ケ布天寧寺・三田海禅寺および八王子市下恩方心源院とこの高乗寺である。寺伝によれば、はじめて高乗寺が草創されたのは遠く応永元年(一三九四)三月で、臨済宗に属し、開山は広園寺と同じく舜翁令山、開基は片倉城主長井大膳大夫高乗(広秀)(法名高乗寺殿大海道広大禅定門)となっている。
長井氏系図によると、大江広元の子時広(米沢城主、出羽長井荘領主)からはじめて長井氏を称し、その子泰秀から時秀・宗秀・貞秀と相継ぎ、大膳大夫広秀となっている。そしてこの広秀は興国六年(一三四五)足利尊氏の天竜寺詣に従い、また正平七年(一三五二)尊氏の武蔵野戦に従い、応永元年(一三九四)高乗寺を開基したとなっている。没年は応永九年(一四〇二)七月二九日、その室の法名は花澤院殿月窓貞心大禅定尼で没年不明である。寺伝によるとはじめの境内は現地からさらに奥の字梅沢天神山の下にあったのを応永年間(一三九四~一四二八)の中ごろ、今のところに移転したもので、地名を花沢とよんだのがだんだんなまって、初沢と変化したものであるといわれている。江戸時代には境内除地三七三、〇〇〇余坪、竜雲山と号し、上州最興寺末で寺領一〇石の朱印地であった。当寺を最初に開いた舜翁令山がその後広園寺を開いて移って以来、だんだん荒廃していたのを、たまたま通庵浩達の弟子空海禅忠が来錫して居住数年、長禄元年(一四五七)伽藍を興し、その師通庵浩達を上州最興寺から請して開山とし、曹洞宗と改めたのが永正二年(一五〇四)四月であるということである。中興開基は小宮山民部で、甲州武田氏の遺臣であって天正年間(一五七三~一五九一)中興とのことである。ついで宝永六年(一七〇九)佐竹右京太夫の生母が篤信で、浄財を寄進して格地に昇格し今日に至ったのである(新編武蔵風土記稿の寛永二年は誤りだと現住は訂正している)。
なお現住の談によれば、同寺壇徒小野沢孫兵衛の祖先小野沢善左衛門は同寺開基長井広秀の家臣で、爾来家系数十代連綿として今日におよんでいることが判明し、同家保存の古文書によってその正確なことを認承できたとのことである。ちなみに、その家祖小野沢善左衛門およびその妻の法名は左のごとくである。
「善相良印居士 応永二〇年三月一〇日卒。善室妙印大姉応永二七年九月二〇日卒。」
同寺々有地については寺伝によると、応永元年(一三九四)同寺草創当初の境内地は長井氏寄進の四八町歩であったが、その後弘治三年(一五五七)一一月二七日北条氏政から寺中棟別措置とされ、また永禄八年(一五六六)七月二一日北条氏照から門前五問の分を免ぜられ、ついで天正一九年(一五九一)徳川家康から「武蔵国多摩郡椚田の内高十石殊に寺中可為不入者」との朱印を下附され、明治三年まで二七〇年間連綿として相続してきたのであったが、同四年一月五日突如として由緒のいかんを問わず、朱印・除地など一般上地せよとの布達が政府から発せられ、境内七八三坪を除き、ことごとく上地するの余儀なきに至ったのである。これで同寺は伽藍の敷地以外わずかの土地を止めるのみとなったが、明治六年四月同寺三〇世致実由が旧寺有土地払下をその筋ヘ懇請し、ついにその努力が報いられて田畑は無料、山林は時価によって全部払下げられ、草創以来の旧寺有地を完全に確保され、多大の功績を残した。ついで同寺三二世心持戒賢は鋭意全山の造林経営に半生をかたむけて大森林地帯を造営したが、不幸にして大東亜戦争勃発のため、昭和一九年ついに寺有山林が軍事施設に使用されて強制買収を受け、現境内地の前後五町歩を除いた全部を失い、引つづき終戦後の農地開放によって田畑全部を失ったが、三四世仏遷道契が旧寺有山林払下運動に挺身し、ようやく昭和二六年その全部を確保しえたのである。
同寺伽藍の沿革をたづねると、同寺中興の空海禅忠が長禄元年(一四五七)、今の初沢に移転してから永正二年(一五〇四)四月の曹洞宗改宗当時は、境内に日陽軒・西光庵・清流庵・長心庵・天桂院・雪江庵・慈眼庵の塔頭七宇の外百姓二九軒があったが、永禄二年(一五五九)、伽藍寺宝一切焼失、わづかに弘治三年(一五五七)作成の現蔵古図をもって往時をしのぶの外なき状態である。本堂は天正三年(一五七五)建立、間口九間奥行七間半で正徳元年(一七一一)修繕、明治一六年五月一六日改築し、芽葺方形であったが、昭和二八年一〇月瓦葺に改築した。また庫裡方丈は文禄二年(一五九三)の建立、文化八年(一八一一)大修繕を加え、明治三二年再び大修繕を行い、昭和三〇年四月大改造を加えた。鐘楼は応安元年(一六四八)の建立、梵鐘は昭和一七年(一九四二)太平洋戦争の金属回収により徴用されて現存しない。その鐘銘中、今井氏とあるのは関東十八代官の一人であり、同寺に今なお苔むした歴代の墓地がある。また鐘銘の執筆者たる同寺十一世斧山は埼玉県比企郡小川町巌竜山永昌寺(同寺末)の開山で、延宝元年(一六七三)正月二日示寂している。観音堂は茅葺方形木造、奥行四間間口三間半、天保年間(一八三〇~一八四三)の建築で同寺最古の建造物であり、観世音木像三一体を奉安している。同境内までの参道は終戦後初沢川の西側に治って変更され、戦前昼なお暗かった老樹の並木もことごとく伐採されているが、最近この一帯の境外地に数十軒の文化住宅がいらかを並べて建ち、旧時の面目は全く一新されている。また総門の東方高く仰ぎみる城山を初沢城と称し、一般に横山時重の四男重兼その子広重ら歴代がここに居を構えて椚田氏を称した。なお一説には同寺開基長井氏の拠城とも伝えられているが、同寺との歴史的関係は不明である。現在同寺に保存されている古文書および古図は次のとおりである。
一、弘治三年北条氏政文書 一通
一、天正八年北条氏照文書 二通
一、天正一八年四月 太閤朱印文書 一通
一、天王一八年六月 筑前守花押文書 一通
一、慶応四年 太政官差出文書 一通
一、弘治三年作製高乗寺境内図 一枚
一、元禄元年作製 高乗寺境内図 一枚
なお、新編武蔵風土記稿所載の慶長七年(一六〇二)一〇月八王子領主大久保長安から同寺に対する自邸建築用材の所望文書は現存していないが、これによって当時長安邸(現在の小門町)に失火のあったこと、また当時の高乗寺山内には相当の大樹が繁茂していたこと、長安邸からいかにも礼をつくしていんぎん丁重な物こしで用材を所望した模様がうかがわれてすこぷる興味が深い。文面左のごとし。
態令啓上候、仍御無心之申事ニ候得共、松木にて、永木壱本申請度候、石見屋敷ニ火事出来、俄ニ作事□□仕候、何方にも、永不成者一切無之、不及料簡申入候、依之御寺まで山□遦可し申候、御用□申請度存候、三間の引物ニ成候、永□可申請候、恐惶敬白
十月十四日
大野八右 花押
田上庄右 花押
諸星右兵 花押
高乗寺侍衆閣下
右について同寺では、境内字二枚畠で七尺廻り槻一本、同じく池の沢で八尺五寸廻りの桜一本、六尺五寸廻りの松一本、同じく堂カ屋根沢で杉丸太一六本、以上一九本を送っておいたところが同年十二月使者松本伊兵衛をもって
一、 銀杏の紋付たる台子 一脚
一、青螺鞍 一口
一、鐙 一口
を謝礼として贈ったとのことである。
当寺系統の末山は現存一六カ寺、また世代現住まで三六世を数える。昭和三〇年四月九日示寂した第三十四世仏僊道契は特に学識高く、詩文に長じ、禅に関して「三物秘弁講話」「禅道法話集」その他多くの著作あり、永く同宗大本山永平寺貫道北野玄峰に随身し、その多くの語録および伝記などをも編述した。(「八王子市史」より)
高乗寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」