共生山不断院|港区(西久保)から移転
不断院の概要
浄土宗寺院の不断院は、共生山浄光寺と号します。不断院は、専蓮社覚誉上人呑了大和尚(寛永17年寂)が寛永7年(1630)麻布に創建、慶安2年(1649)に天徳寺境内へ移転し、天徳寺の塔頭寺院となり、出雲松平家の菩提寺となっていたといいます。第二十四世現譽広学上人の代に東京都西部への移転を計画、平成4年に当地への移転を完了しています。
山号 | 共生山 |
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院号 | 不断院 |
寺号 | 浄光寺 |
住所 | 八王子市弐分方町179 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
不断院の縁起
不断院は、専蓮社覚誉上人呑了大和尚(寛永17年寂)が寛永7年(1630)麻布に創建、慶安2年(1649)に天徳寺境内へ移転し、天徳寺の塔頭寺院となり、出雲松平家の菩提寺となっていたといいます。第二十四世現譽広学上人の代に東京都西部への移転を計画、平成4年に当地への移転を完了しています。
不断院パンフレットによる不断院の縁起
不断院は寛永七年(一六三〇年)東京都港区麻布(当時の麻布村)に専蓮社覚誉上人呑了大和尚が不断寺として設立されました。その後慶安二年(一六四九年)江戸浄土宗紫衣四か寺の一つといわれた天徳寺(港区芝西久保巴町・現在の虎ノ門三丁目)内に寺域を移転し天徳寺の塔頭寺院となり不断院と名前を改めます。不断院の当時の本寺である天徳寺は後奈良天皇から「光明山天徳寺」の勅額および紫衣綸旨を賜わる寺院で、出雲・越前・津山などの松平家のほか、十数藩の江戸での菩提寺となった寺院です。
不断院は昭和の初期まで出雲松平家の江戸における菩提寺で、能の観世流家元の菩提寺でもありました。大正時代松平家から寄進された袈裟や祠堂位牌など現在も保存されています。その後江戸時代から同所にありましたが、新たに発展著しい東京西部に活動の場所を移すべく第二十四世現譽広学上人によって寺域の移転が開始されました。昭和五十八年に現在の境内地を取得後、数年にわたる協議調整の後、行政の許認可をへて現在の弐分方丘陵の一角を造成、平成四年に現在の本堂・書院(客殿)庫裡・茶室などが完成落慶いたしました。
平成十四年には境内地に霊園「浄光の森聖地」並びに永代納骨・合祀墓地「ともいき」が完成し現在にいたります。(不断院パンフレットより)
不断院の周辺図
参考資料
- 不断院パンフレット
- 御府内寺社備考