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天徳寺|港区虎ノ門にある浄土宗寺院、触頭、御朱印寺

天徳寺の概要

浄土宗寺院の天徳寺は、光明山和合院と号します。天徳寺は、三蓮社縁譽稱念上人が天文2年(1533)紅葉山に天地庵と号して創建、慶長16年(1611)当地へ移転したといいます。浄土宗江戸四ヶ寺の一つで、元和元年家康公(1615)より50石の、元和9年(1623)に二代秀忠公より100石の朱印を賜った御朱印寺だといいます。江戸三十三観音霊場20番札所です。

天徳寺
天徳寺の概要
山号 光明山
院号 和合院
寺号 天徳寺
住所 港区虎ノ門3-13-6
宗派 浄土宗
本尊 聖観世音菩薩
葬儀・墓地 -
備考 浄土宗江戸四ヶ寺触頭、江戸三十三観音霊場20番札所、墓苑受付中



天徳寺の縁起

天徳寺は、三蓮社縁譽稱念上人が天文2年(1533)紅葉山に天地庵と号して創建、慶長16年(1611)当地へ移転したといいます。浄土宗江戸四ヶ寺の一つで、元和元年家康公(1615)より50石の、元和9年(1623)に二代秀忠公より100石の朱印を賜った御朱印寺だといいます。

「芝區誌」による天徳寺の縁起

天徳寺 西久保巴町四十八番地
浄土宗江戸四ヶ寺の一つで、光明山和合院と號する。知恩院末派に属し、同宗内の巨刹である。天文二年、後の江戸城紅葉山の地に創建し、天地庵と號し、天正十三年霞ヶ關に移り、慶長十六年此地に移つた。稱念に就いては、寺傳に次ざの如くある。
草創、天文二癸巳年三月。開山吟翁と云、後稱念と改む。稱念姓は藤田氏、當國品川の人なり。甫八歳にして得度し、増上寺主周仰の門に入り、後岩槻浄國寺に住し、環て當寺を創す。居ること三年にして、伊勢松坂樹教寺に移り、又西京一心院に住む。天文廿三年甲寅秋七月十九日寂す。寺格紫衣、檀林寺領。始め草創の際、武州川越城主大導氏より永三貫文の地を附與せられたり。徳川氏に至り、朱印書改、更に五十石を賜る。但し領地麻布本村の内二十二石八斗九升、荏原郡久ヶ原村に三石九斗六升餘。
「江戸砂子」には、「中興十二世晃譽上人は、智徳すぐれ、大名高家の崇教あつく、寺中榮え、寺領五十石も有したる巨刹」とあり、又「江戸名所圖會」には「花洛智恩院に属す。浄家江戸四箇の一にして、紫衣の地たり。支院十七宇あり。本尊阿彌陀如来は行基大士の作、開山は三蓮社縁譽稱念上人」と記してあつてなかなか盛んな寺であつた。江戸時代には支院に榮壽院、攝取院、不断院、光岳院、浄桂院、寶瑞院、榮立院、厳受院、榮閑院、智相院、瑞養院、智學院、和合院、長元院、龍興院、長谷院、浄品院の十七宇があつたが、現在は長元院、榮閑院、和合院、攝取院、寶瑞院、榮立院、榮壽院、不断院、長谷院の九支院に過ぎない。堂宇は大正震火災に焼けて、目下假建築のままである。寺内に荒川不動がある。
本寺は露國西伯利阿総督の宿舎に宛てられた遺阯として人に知られてゐる。(「芝區誌」より)


天徳寺所蔵の文化財

  • 弥陀種子板碑(港区指定有形文化財)
  • 絹本着色阿弥陀三尊図(港区登録有形文化財)
板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて各地で造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種である。鎌倉時代には地方豪族や僧侶によって立てられたが、南北朝時代以後は庶民にまで広がり、その造立も民間信仰と密接に関連し、本来の仏教的色彩は薄れた。
本板碑は、緑泥片岩(秩父青岩)の一尊種子板碑で、高さ68センチ、幅29センチ、頭部を山形に造り、その下に二段の切り込みを入れ、身部の幅は同等で変わらない。身部上半に蓮華座上に梵字「キリーク」(阿弥陀仏9を異字体で表し、下半には「永仁6年7月日」(西暦1298年)の銘を刻む。梵字が分断直裁の薬研彫でやや浅く、年が草体で記されており、時代の特徴をよく示している。
鎌倉時代の造立刻銘をもつ種子板碑の典型であり、港区内には稀少な存在である。(港区教育委員会)


天徳寺のもと別院・塔頭


天徳寺の周辺図