長光山本立寺|八王子七福神の毘沙門天
本立寺の概要
日蓮宗寺院の本立寺は、長光山と号します。本立寺は、原刑部胤従(文禄4年1595年卒)が開基となり、本立院日建(慶長19年1614年寂)を開山として天正年間(1573-1592)瀧山に創建、慶長元年(1596)本立院日建(慶長19年1614年寂)を開山、千人頭原胤従(文禄4年1595年寂)が開基となり慶長元年(1596)当地へ移転の上中興したといいます。江戸期には寺領12石の御朱印状を拝領していたといいます。八王子七福神の毘沙門天です。
山号 | 長光山 |
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院号 | - |
寺号 | 本立寺 |
住所 | 八王子市上野町11-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本立寺の縁起
本立寺は、原刑部胤従(文禄4年1595年卒)が開基となり、本立院日建(慶長19年1614年寂)を開山として天正年間(1573-1592)瀧山に創建、慶長元年(1596)本立院日建(慶長19年1614年寂)を開山、千人頭原胤従(文禄4年1595年寂)が開基となり慶長元年(1596)当地へ移転の上中興したといいます。江戸期には寺領12石の御朱印状を拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による本立寺の縁起
(上野原宿)本立寺
法蓮寺の東隣なり、境内は御朱印寺領十二石の内なり、長光山と號す、これも日蓮宗にて、身延山久遠寺の末寺なり、開基原刑部胤従開山の僧本立院日建を帰依して當寺を起立し、日建を以て開山とせり、胤従は文禄四年二月廿日卒し、日建は慶長十九年十月十六日寂せり、寺傳に此寺天正中まで瀧山にありしが、慶長元年當所へ移れりと、これによれば起立せしは天正のころなること推てしらる、其以前は真言宗の寺にてありけるとぞ。
門。兩控作、彫物あり、北向なり、大門前若干歩あり。
本堂。九間に七間、東向也、本尊三寳諸尊を安す、向拝二間四方、銅葺也。
廻廊。一間に八間。
寺寳。
日蓮真蹟一軸。
金闌戸帳一。浄岸院殿御寄附在しと云、御紋を織出しにせし者也。
九條袈裟一。尾張殿より寄附せられしと云、白地にて御紋を織出せし者也。
鐘楼。二間四方、鐘は近き頃鋳造せし者なり。
祖師堂。本堂の向ひにあり、二間に三間前に拝殿あり、祖師の像は六老僧日昭が作なりといふ、日昭は一百三歳にて元享三年に寂せり、因に延壽の祖師と稱す、像は長さ五寸ばかり、昔當所の御代官近山五兵衛入道して友閑と號し、信心堅固の人なりしが、この像は其人の看経佛なりしといへり、この友閑當寺の檀越なれば、後に當寺へおさめけるなりとぞ云へり。
番神堂。祖師の堂のならびにあり、三間四方あり、七面の像をも相殿とす。(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による本立寺の縁起
本立寺(上野原宿―上野町七)
長光山と号し、本尊三宝諸尊、永禄九年(一五六六)四月滝山の地に創建されたといわれる。その後、慶長元年(一五九六)開山本立院日建(慶長一九年 一六一四 一〇月一六日寂)、開基千人頭原胤従(文禄四年 一五九五 二月二〇日寂)が現地に中興した。江戸時代には御朱印寺領一二石を賜わり、身延山の宿院であった。昭和二〇年八月二日戦災にかかり、現本堂は戦後のものである。境内に千人頭原胤敦の墓があり、現に都旧跡である。(本立寺(上野原宿―上野町七)
長光山と号し、本尊三宝諸尊、永禄九年(一五六六)四月滝山の地に創建されたといわれる。その後、慶長元年(一五九六)開山本立院日建(慶長一九年 一六一四 一〇月一六日寂)、開基千人頭原胤従(文禄四年 一五九五 二月二〇日寂)が現地に中興した。江戸時代には御朱印寺領一二石を賜わり、身延山の宿院であった。昭和二〇年八月二日戦災にかかり、現本堂は戦後のものである。境内に千人頭原胤敦の墓があり、現に都旧跡である。(「八王子市史」より)
本立寺所蔵の文化財
- 原胤敦墓
原胤敦墓
胤敦は通称を半左衛門といい、寛延元年(一七四八)八王子千人同心の千人頭の家に生まれた。安永五年(一七七六)その家督を継ぎ、寛政一二年(一八〇〇)に千人同心の子弟一〇〇人を率いて蝦夷地(北海道)にわたり、その地の開拓に従事した。
文化元年(一八〇四)箱館(函館)奉行の支配調役に任ぜられたが、文化五年(一八〇八)に帰国、文化一一年(一八一四)幕府の命によって「新編武蔵国風土記稿」の編纂事業に、塩野適斎、上田孟晉らとともに従事した。
文政一〇年(一八二七)二月九日、八〇歳で病没した。
「勇香院殿入道了潜日輔居士」と称する。(東京都教育委員会掲示より)
本立寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」
- 日蓮宗本立寺
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」