龍光寺|八王子市宇津木町にある真言宗智山派寺院

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増寳山龍光寺|多摩八十八ヶ所霊場、文和の板碑

龍光寺の概要

真言宗智山派寺院の龍光寺は、増寳山密蔵院と号します。龍光寺は、清雅和上法印(応永3年1396年寂)が開山となり創建、江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領、末寺20ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院だったといいます。当寺には文和2年(1353)、時宗の二祖他阿真教の三十五年忌に造立したものと伝えられる文和の板碑が残されています。多摩八十八ヶ所霊場79番です。

龍光寺
龍光寺の概要
山号 増寳山
院号 密蔵院
寺号 龍光寺
住所 八王子市宇津木町738
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 報恩弥陀院報光殿
備考 -



龍光寺の縁起

龍光寺は、清雅和上法印(応永3年1396年寂)が開山となり創建、江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領、末寺20ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院だったといいます。

新編武蔵風土記稿による龍光寺の縁起

(宇津木村)龍光寺
除地、千百坪、新義真言宗、山城國醍醐無量壽院末、増寳山密蔵院と號す、寺領二十石の御朱印を賜ふ、開山清雅法印は応永三年三月七日寂せり、本尊は大日長二尺五寸、坐像なり、本堂十三間に九間、未申に向へり、中門柱間八尺、総門は九尺あり、裏門は長屋づくりにして、二間に六間ばかりなり。
鐘楼、六尺五寸四方鐘の径二尺五寸、銘文あり。(銘文略)
弥陀堂、三間四方。
青龍権現社、境内の鎮守なり、三尺四方、宮造にて、覆屋九尺に八尺
古碑一基、文和二年十一月廿一日と刻し、上に悉曇及蓮華等を彫る。(新編武蔵風土記稿より)

八王子市史による龍光寺の縁起

増宝山密厳院と号し、本尊大日如来、開山は清雅(応永三年 一三九六 三月七日寂)であり、清雅の法流は高尾山薬王院と同じく、東密三宝院流の支流たる松橋流で、清雅は醍醐無量寿院俊盛より受法したものである。また同村埼玉権現社・姫宮八幡宮および若宮八幡宮の別当であった。江戸時代には寺領二〇石の御朱印を賜わり、寺勢はなはだ盛んであったが、昭和二〇年八月二日戦災のため本堂その他を焼失し、現在の本堂は大谷町報恩寺の本堂を移築したものである。境内に文和二年(一三五三)一一月二一日の板碑がある。また鎌倉時代の銅磬、長享三年(一四八九)在銘の銅製鰐口を所蔵する。(八王子市史より)


龍光寺所蔵の文化財

  • 龍光寺の文和の板碑

龍光寺の文和の板碑

名号を主尊とする板碑で、周囲に供養者である時宗の宗徒一〇六名の阿号(時宗の法名)が刻まれ、時宗帰依者の結衆板碑として貴重な資料である。現在はこの地にあるが、大正初年頃までは谷地川沿いの街道に面して建っていたという。
板碑は先祖供養や逆修供養(自分の死後の供養)のために石に彫られた卒塔婆で、おもに緑泥片岩で作られ、鎌倉・室町時代に関東地方を中心に流行した。この板碑は石工の銘が刻まれている点でも貴重である。文和二年(一三五三)、時宗の二祖他阿真教の三十五年忌に造立したものと伝えられる。(八王子市教育委員会掲示より)

龍光寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 八王子市史

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」