猫の足あとによる八王子市・東京都・首都圏の寺院、神社など寺社案内

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

高尾山薬王院|八王子市高尾町にある真言宗智山派寺院、真言宗智山派大本山

薬王院の概要

真言宗智山派寺院の薬王院は、高尾山有喜寺と号します。薬王院は、天平16年(744)行基が勅命を奉じて、本尊薬師如来を安置して創始、永和年間(1375-1379)に沙門俊源が飯綱権現を安置して中興したといいます。小田原北条氏より崇敬を受け、北条氏康より境内75石を拝領、北条氏照より別途椚田村に75石を拝領していたといいます。江戸幕府よりは、慶安年間に寺領75石の御朱印状を拝領、末寺21ヶ寺を擁していたといいます。真言宗関東三山の一つに数えられ、真言宗智山派の大本山、関東九十一薬師霊場5番、関東三十六不動8番、多摩八十八ヶ所霊場68番です。

薬王院
薬王院の概要
山号 高尾山
院号 薬王院
寺号 有喜寺
住所 八王子市高尾町249-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



薬王院の縁起

薬王院は、天平16年(744)行基が勅命を奉じて、本尊薬師如来を安置して創始、永和年間(1375-1379)に沙門俊源が飯綱権現を安置して中興したといいます。小田原北条氏より崇敬を受け、北条氏康より境内75石を拝領、北条氏照より別途椚田村に75石を拝領していたといいます。江戸幕府よりは、慶安年間に寺領75石の御朱印状を拝領、末寺21ヶ寺を擁していたといいます。真言宗智山派の大本山です。

新編武蔵風土記稿による薬王院の縁起

(上椚田村)飯綱権現社
山頂に鎮座す、縁起を案するに永和年間有喜寺中興沙門俊源、この神を勸請して一山の鎮とす、是よりして世々座せり、神體は白狐に乗たる像にて、長二尺ばかり、往古異人の彫刻する所なりとて、移して開扉することなしと云、本社九尺四方、南向なり、脇障子高欄付、二重垂木、二手先造、外羽目通、惣彫彩色、内陣扉前九尺四方、その前階八級ありて幣殿に至る、幣殿は大さ五間に三間、格天井繪畫あり、左右に燈窓を設く、拝殿六間半に三間半、出し組二重垂木造、此所も格天井にて畫あり、惣丹塗、向拝長二間半に脇九尺、雲龍の彫もの橡に高欄を設け、向拝に鰐口をかく、本社幣殿の廻りに瑞籬あり、東西五間、北裏六間、丹塗上の欄間花鳥の彫物彩色を加て、屋根は銅瓦にて其餘は板葺なり、年々三月廿一日祭事あり、これを御影供と號す、翌る廿二日大盤若を轉讀す、この二日遠近の人頗群衆す。
鳥居二基。一は麓にあり、南向にたてり、是を一ノ鳥居とす、柱間二間控柱付、高尾山の三字をかく、松平越中守定信が書なりと云、一は山上薬師堂の傍にたてる、神楽堂の西の方にあり、東に向へり、これを二ノ鳥居と號す、兩柱の間二間、飯縄大権現の五字をかく、これも近き比酒井雅楽頭忠道が書しものなりと云、こゝより石階數十級を上りて社前に至る。
石碑。二の鳥居の傍にあり、その文に(碑文省略)
この所より石階は西の方へ三十二級を上り、又北へ折れて百級許を上りて社前に出づ。
石燈籠。社前の左右にあり。
石貌。これも同じ、此邊百六十坪ばかりの平地也。
神楽堂。北向なり、二間に三間。
末社。
愛宕祠。本社に向て右にあり、銅瓦葺大床造り、五尺に五尺八寸、北向なり、将軍地蔵の木像を安す、白馬に乗たる貌なり、長一尺二寸ばかり、古北條氏より寄附せし所なりと云。
天満宮。本社の東の方にあり、西向なり、小社杉皮葺、神體は木の坐像にて長五寸許。
摩利支天社。天満社の北の並びにてこれも社は同じ造作なり、神體は三足の鳥に乗りし木像なり、長一尺二寸許、作知ず。
松尾社。同並にて北の方なり、大さ前と同くして橡葺なり、覆屋九尺に七尺、神體は白幣なり。
太神宮八幡春日相殿社。本社に向て左にあり、松尾社と同大さにして、板葺なり、上屋は塗籠にて九尺に七尺、三座ともに白幣を神體とす。
辨天社。三社相殿社の並にて北の方にあり、これも社は同大さにて、杉皮葺なり、神體は坐像にて長七寸、十五童子の像長各五寸許。
稲荷社。これも同邊にあり、この所の鎮守なり、正一位稲荷と號す、南向にて四尺四方、こけら葺なり、神體は木の立像にて長一尺ばかり、前に鳥居をたつ、例祭は年々の四月の初の卯の日なり。
奥院三社。奥院は社地後背の山なり、末社辨天と稲荷との二社の間に坂あり、これを奥院坂と呼ぶ、坂口より四五十間登りて社地あり、平垣の處は纔に十六坪ほど、矢来を設く、四邊は松杉鬱蔚としていとものすごし。
飯綱本地社。南向なり、社四尺四方橡葺なり、本地石の不動長九寸ばかり、立像にていと質なる者也。
淺間社。これも南向にて、本地社の左の方にあり、白幣を神體とす、社は前におなじ。
大天狗小天狗社。淺間社に向て左の方にあり、是も白幣を神體とす、社は二尺四方、板葺なり、東に向ふ、覆屋九尺に七尺橡葺なり。
別當薬王院
境内、東西五十町餘、南北三十五町餘、飯綱社の未の方なる平地にあり高尾山有喜寺と號す、京醍醐松橋無量壽院末、新義眞言宗なり、大猷院殿の御時、寺領七十五石の御朱印を賜ふ、開闢の来由を尋ぬるに、聖武天皇の御宇天平十六年行基菩薩開創せしを始として、其後のことは年代はるかなれば、興廢得て知るべからず、後圓融天皇の御宇永和年間沙門俊源と云もの中興して、飯綱の神を山頂に安置せしよりこのかた、歴世綿々として傳燈たえず、現住秀神に至るまで十八世に及ぶといふその委きことは載て縁起にあり、昔小田原北條氏全盛の時氏康より境内七十五石の地を寄附す、その比の領主陸奥守氏照よりも田地七十五石を別に椚田村の内にて出せり、北條氏滅亡の後、元和年間に至り、第十世の僧堯秀學業の爲に、大和國長谷寺に住山の間なりしが、寺田七十五石は収公せられ、境内の寺領はそのまゝ所務せしが、慶安年中に至りて舊規のごとく、寺領相違なきよしの御朱印を大猷院殿より賜はれり寺のかまへ平地四百坪餘にて、本堂巳午向、九間に七間、本尊大日は木の坐像、長二尺五寸許、左右に不動愛染を安す、その右の間は護摩修法所なり、本尊不動木の立像にて、二尺ばかり、又別に同く坐像の不動を安せり、長一尺七寸許、是は弘法大師の作なりと云、中興開山俊源永和三年寂すと云、その月日は傳へを失せり、十七ヶ寺の末を統ふ、かゝる古蘭若なれば、寶物古文書等そこばく蔵せり、
寺寶。
御紋純子水引一。元文二年五月竹姫君寄附したまふ所なり、時に浮月院比丘尼その命を傳ふと云。
御紋白地幸菱戸帳一、同紺地錦銀杏葉牡丹織水引一。元文五年十二月一位大夫人寄し附し給云、江戸澁谷妙性院とりつきて命をつたへり。
御紋紺地金襴戸帳一、同紺地錦水引一、同挑灯四。寶暦五年二月紀伊宗直卿寄附せられし所なり。
銅燈爐一。元龜年中の物なり、惣體堅固に造りたれば恰好よりも重し、其圖左の如し、高さ一尺二寸餘、徑八寸ばかり、覆に銘あり、其文云、武蔵國多西郡横山庄椚田郷高尾山有喜寺薬師堂、奉寄進金燈爐、旦那刑部照房、于時元龜二年辛未七月十二日、敬□と刻す、刑部照房は領主氏照の親族などにやあらん、未考へず。
三鈷一。興教大師手澤のもの也と云傳ふ。
独鈷一。中興俊源僧正加持水の独鈷なりと云、紫色の石にて作りし者なり、其圖如上、
七度返刀一振。平安城住景廣が作なり、刃一尺八寸五分、兩面に樋あり、中心四寸、箱蓋の裏に由緒を記す、云右當山十一世祐清法印代、常陸の産小林治右衛門なる者、當山に給仕しける間、祐清に懇望しける故、是を與ふ、明暦元年未十一月十五日なり、其後此刀を帶せしに、災難に逢ひ或は悪夢を見て他へ譲り與ふ、然るに其人も又形の如く不仕合にて、其後元禄四年同州筑波郡眞壁村上野甚左衛門といへるもの、此刀を求得しが、或夜の夢に武州高尾山の神前の寶劔なれば、早く納よと夢にて奇異の思ひをなし、彼求めし所より段々其源を尋ぬれば、明暦より元禄四年未四月迄の間、人手に渡ること十一度、當山へ返る事七度とかや、誠に権現の惜玉ふ寶劔にや、右甚左衛門登山して委細ものがたりせしまゝ、其因縁を記すと云々、
盗賊耳附ノ板一枚。長二尺五寸、幅六寸ばかり、相傳ふ元和七年十一月四日、飯縄社へ盗賊しのびいり、耳を羽目につけて物音を伺ひきゝしに、其儘はなれず、翌る日住僧源惠に達しければ、賊もはなはだ悔ひて詫けるにより、法楽修業して神のあはれみを乞ひけるにぞ、漸くにはなれけるとなり、奇怪の説なれど語り傳ふるまゝにしるせり。
東寺羅城門古瓦一枚。安永四年時の住僧の需により、教王護國寺権僧正より譲受しものなりと云、雖爲相傳之重寶、感慇懃之芳志令寄附のよし、その状そひてあり。
金光明最勝王經喩讃品一巻。小楷書にて俊賴朝臣の筆なりと云、元文三年二月華洛住人岩瀬保孟家蔵之品、當山々主歸依に付、爲部門榮達奉納と云、證状あり、又朝蔵茂入景順極状もそへたり、
慈鎮和尚筆一葉。妙法院堯恕法親王の鑒定そへり、慈鎮自詠の歌なり。
十禅師のやしろによみてたてまつりける
前大僧正慈鎮
鷲のやまあり明の月はめくりきて、わかたつ杣の麓にそすむ
(中略)
書院。十間に三間、白雲閣と號す、此所は山の崖端にて、頗る眺望よし、大木の梢を眼下に見おろして、いと奇觀なり、此外僧房、臺所、厩、物置等よほどの構あり、登山の旅客日夜に憩息する者、そこばく人たゆることなし。
攝待湯呑所。本堂の前にあり、一間半に五間。
裏門。戌亥の方にあり、柱間九尺。
黒門。門外そこばく隔てゝあり、古の山門の名殘也と云、兩柱の間三間ばかりの冠木門なり、この所より表門までの間を廣庭と呼ぶ、凡六百坪ばかりの平地なり、南は深谷にして、此所より相州の山川平野ことごろく眼中にありて、天晴るゝ時は、景色いとよろし、北の方に石階あり、上ること三十餘級にして亦仁王門もあり。
仁王門。南向なり二間に三間、杉皮にて葺く、高尾山の額は沈草亭が書なり、左右力士の像は、長八尺許り、作しらず、この門の内平地あり、三百坪餘なり。
薬師堂。門を入て正面にあり、四間四方、茅葺にて南に向ふ、薬師堂の額字は黄檗僧悦山の書なり、本尊瑠璃光佛、木の坐像、長二尺ばかり、行基菩薩の作なりと云、脇士日光月光の二像、長各二尺三寸ばかり、十二神の像、長各一尺八寸ばかり、共に運慶の作なりと云傳ふ、年々四月十二日薬師講行はる。
大日堂。薬師堂に向て右にあり、三間四方、南向なり、大日堂の三字をかく、佐々木玄龍の書なり、大日木の坐像を安す、長二尺ばかり作しれず。
護摩堂。同じく向て左にあり、これも三間四方、南向なり、護摩堂の三字を扁す、悦山の書なり、不動の木像を安す、長三尺五寸ばかり、智證大師の作なり、二童子長各一尺五寸許、作しらず。
鍾樓。巽の隅にあり、二間四方、茅葺にて二重垂木出し、組彫樓あり、鐘徑三尺長五尺ばかり、銘文に、(銘文省略)
神楽堂。北向なり、二間に三間、茅葺なり。
香爐盤。薬師堂の前にあり、高さ五尺、爐の徑り二尺五寸餘り。
寶篋塔。仁王門を入て左にあり、基石共に一丈七尺ばかり、寶永八年荏原郡用賀村の農家より建立せしよしを彫る、以下は黒門の内廣庭にたてるものを記す。
水盤。仁王門の前石階下右の方にあり、石にて作れり。
五重塔。唐銅にて作る、庭中北に寄てあり、高さ臺石とともに一丈八寸、金胎兩部の大日如来二尊を安す、長各七寸ばかり、坐像なり、その餘薬師・寶生・彌陀・釋迦の四佛坐像にて、長各六寸、並に脇立あり、これも坐像にて長三寸づゝ、四隅に持國・僧長・廣目・多聞の四天あり、長各八寸、いづれも銅像なり、塔基の面に(銘文省略)
證寂庵。仁王門の前石階の下南によりてあり、二間に六間、茅葺にて北に向ふ、本尊岩屋不動木の坐像なり、長四寸四大明王の長四寸ばかり、厨子にをさむ。
蓮華院。廣庭客寮後へ石階下りて平地にあり、凡二十七坪許、本堂四間に五間、南向なり、本尊十一面観音木の立像にて長一尺二寸ばかり、庫裏土蔵たてつらぬ。
以下境内山中にあるものをしるす。
雨寶陵。寺の東南の谷中にあり、小高き陵なり、上に二尺ばかりの小祠あり、東に向ふ、雨寶童子及び辨財天を合祀す、白幣を神體とす。
妙見社。寺を距る事十町餘にして路傍にあり、側に杉一本あり、小社にして覆屋を設く、神體白幣を以てすと。
淺間社。寺より十四町を隔てゝ路の左高き所にあり、神體は白幣なり、石の小社にて前に拝殿を設け、その前に鳥居を立つ。
金毘羅社。寺より二十町許にあり、此所を旗竿と云、社地五十歩許、神體はこれも白幣なり、小社にて覆屋あり、因に云此所に落合、駒木野へ通ずる間道あり、社地を過て坂兩岐在落合への間道は土俗にすく路と呼ぶ、路程十四町ばかり、駒木野關への間道は十間許なりと云、此社地眺望いとよし、東南は山河を望み、就中東は蒼海渺漫として白帆を浮べたるさま畫圖のごとし。
天満社。小社にて白幣を神體とす、東向なり、その所は雨寶辨天の池邊なり、辨天の事は下に出せり。
浄土院。有喜寺より十九町を隔てゝ駒寄の内にあり、五間に二間半の寮なり、本尊は薬師にて木の坐像、長八寸許、二光佛の立像、長各七寸許、作ともに詳ならず、
接待茶屋。寮の向ひにあり、此所へ壹二十坪許、大さ二間に三間。
弘法大師石像。寺より八町許、路の右傍にあり、坐像にて長五寸許り、西に向ふ、覆屋をなせり。
不動院。一の鳥居に向て右の傍にあり、薬王院の末寮なり、六間に三間半、西向なり、本尊は木の坐像にて長三尺餘、二童子の木像、立身にて長各三尺餘、作しらず、構は三十坪許、此所より山上まで一里なり。
琵琶瀧。黒門を距ること二十町、水源は鳴鹿洞より出づ、瀧口幅五寸、高さ一丈二尺、下にては幅四尺許の飛流なり、側に九尺に二間の垢離小屋あり。
布流瀧。一の鳥居より登ること五町ばかりにあり、参詣の人々此所にて垢離す。
清瀧。一の鳥居に向て左にあり、水源は琵琶下流の分水なり、瀧口にて高さ一丈四五尺ほど、岩上に石不動あり、長三尺許、下に石碑あり、高五尺許、幅六尺餘、厚一尺、その銘文は山主大僧都秀興撰するものにて、寶暦五年とあり。
前澤川。或は琵琶澤川と呼ぶ、水源は薬王院の西北鳴鹿洞より湧出し、東北に流れて又東南に折れ、それより琵琶ヶ瀧となり、下流は案内川に入、水路凡一里許。
伊久澤川。本社の後谷にあり、水源は独鈷水より涌出し、北流して小佛川に入、水路凡二十二三町、その源は細流なるゆへに、下流もいときよくしてあさし。
逆澤川。山の西境にあり、水源は馬上ヶ坂より涌出し、逆澤通りを西流し、又北流して小佛川に入、水路大抵二十町ばかり、これも細流なり。
独鈷水。寺の裏門の外二十歩ばかりを隔てゝ右の方にあり、方二間許、深さは八九尺、あい傳ふ、中興の僧俊源独鈷を以て加持し、是所にて水を得。
馬上ヶ坂。寺より西にあたりて、道程三十町を隔てり。
炊谷。寺の裏門より西へ二町餘をへだてゝ、左の傍にあり、古異人此所にて飯縄の神體を彫刻せし舊跡なり、異人彫刻の間、人の傍観するを許さず、爰に獨居して飯を炊きしゆへに、この名起りしと云、今は蔬園となる、廣さ大抵一段程、平坦の所。
傍示杭。一の鳥居より巽の方三十四あいだ許りにたてり前澤案内の二水へ落る流を界とす、杭に題して云、從是西北薬王院領慶安元年九月と、されど今の杭は近き頃造改しものなりといふ。
制札場。東南の麓椚田谷寺領傍示杭の側にあり、其文は前にみえたる北條氏康より出せしものなり、昔はこの餘に四ヶ所ありしが、いつの比よりか廢せりといふ、其場所は西の麓小佛谷、及びその北より字甘芝、此二ヵ所には氏康と太田資正が出せしものをたて、案内谷の方駒木野關柵際川手前と、その西寄の方との二ヵ所には、資政が制札をたてしと云傳ふ。
十勝。古より歌人墨客のもてはやす所なり。
薬王殿。
威神臺。すなはち飯綱社なり。
白雲閣。薬王院の書院なり。
紫陽關。山中の高峯なり、此の所の字を鷹取場と云、四邊ともに眺望あり、寺をへだつること十六町許。
海嶽樓。山下の廣庭也、眺望いとよし。
望墟軒。浄土院にあり、此所より北條氏照の丘墟をのぞむ。
七盤嶺。字旗竿の邊を云。
雨寶陵。已に前に出せり。
琵琶瀑。これもおなじ。
鳴鹿澗。この所の字を泉水澤と唱ふ、寺よりは申の方にあたりて、秋ことに鹿この所につだふといふ。(新編武蔵風土記稿より)

八王子市史による薬王院の縁起

高尾山薬王院有喜寺と号し、元来は飯縄権現社および薬師堂の別当寺である。成田山新勝寺および川崎大師平間寺と共に真言宗関東三山の一つである。
創建の時期は不明であるが、永和年間(一三七五~一三七八)俊源が中興し、同時に飯縄権現を山頂に勧請したものである。爾来法統連綿として現住は実にその第三一世に当たる。戦国時代には寺勢大いに振ひ、後北条氏は代々この山を厚く信仰し、氏康は境内七五石を寄附し、氏照も椚田村の内七五石を寄附し、合わせて一五〇石の寺領を有していたのである。当時より武州一円に信徒を擁して本尊の開帳には参詣人が門前市をなす有様であった(天正三年 一五七五 一一月二一日氏照制札)。
江戸時代には慶安年中(一六四八~一六五二)境内山林七五石を賜わり、その他諸大名、顕官が外護の任に当たり、もと山麓一ノ鳥居の額字は楽翁松平定信の筆であり、飯縄権現社前の二の鳥居の額は酒井雅楽頭の書であった。その他紀州徳川家などの寄進の品物が数多く、いかに中世より上下の信仰の厚かったかが分かるのである。石川日記によれば、寛政三年(一七九一)三月一五日湯島において、文政四年(一八二一)三月一日より江戸四ツ谷大宗寺において、また万延二年(一八六一)三月より六〇日間江戸両国回向院においてそれぞれ開帳したことがみえている。
またこの山は甲武の国境に近く、相甲二州への交通の要衝に当っていて、その周囲には小仏谷・案内谷・椚田谷・富士関の諸関があり、戦略上の重要地点であった。氏照の八王子築城以来は八王子城と相対する位置にあったため、後北条氏は特に重要視した。かくのごとく戦略上の要地であったので、後北条氏はこの山の竹木の保護を厳重に行なった。このことは天正一八年(一五九〇)二月一〇日の氏照の竹木保護の制札によっても推察されるのであるが、その後引続き江戸時代にも山内竹木の保護が行なわれ、幕府は当山の一部を御用林として保護し、現在山の巨木はかかる代々の保護によるものである。現在でもこの山林保護の政策は引続がれ、年々信徒の寄進によって杉苗の植栽を行なっている。現在の参道の杉並木は昭和二七年一一月都天然記念物に指定された。
次に江戸時代の山内の状況を述べると、境内東西五〇余町南北三五丁(現在は一七、八〇〇坪)、当時山内の主要建物は次のごとくである。
1 飯縄権現社 幣殿五間に三間、拝殿六間半に三間半、毎年三月二一日弘法大師御影供法会、同二二日大般若法会が行なわれ、参詣人が雲集した。
2 神楽堂 二間に三間。
3 本堂 九間に七間、本尊大日如来、昭和五年火災により焼失。
4 書院 一〇間に三間、昭和五年火災により焼失。
5 接待湯呑所 五間に一間半。
6 薬師堂 四間四方、毎年四月一二日薬師会が行なわれた。明治一九年山崩れにより崩壊。
7 大日堂 三間四方、現在の不動堂である。
8 護摩堂 三間四方、明治三四年上椚田村大光寺の本堂に移築した。
9 仁王門 二間に三間。
10 鐘撞堂 二間四方。
11 神楽堂 二間に三間。
12 塔中証寂庵 二間に六間。
13 塔中蓮華院 四間に五間。
14 塔中浄土院 五間に二間半、寛政・享和(一七八九~一八〇四)のころ建立。
15 塔中不動院 六間に三間半(高尾町二、二一〇番地に現存)。
現在の境内建物のおもなものは次のごとくである。
1 本堂 五八・八七坪、明治三〇年再建
2 本社(飯縄権現堂) 四七・四四坪、享保一四年(一七二九)建立、昭和二七年一一月三日都重宝に指定された。
3 奥ノ院不動堂 寛永年間(一六二四~一六四四)の建立で、昭和二八年一一月都重宝に指定され、昭和三四年三月復元解体工事を完了した。
4 書院 七七・六七坪、昭和一七年建立。
5 客殿 二八五・四七坪、昭和一七年建立。
6 方丈殿 三三〇坪、昭和二六年一二月完成。
7 鐘楼堂 四坪、寛永八年(一六三一)九月鋳造の梵鐘がある。梵鐘は高さ一四七・四センチ、口径九七・六センチ、銘ならびに序は堯秀、作は長谷川越後守吉家である。
8 仁王門 六坪、貞享元年(一六八四)六月再建、昭和三四年九月台風により崩壊、昭和三七年九月解体復元工事を完成した。昭和三五年八月都重宝に指定された。
9 仏舎奉安塔 (基垣六五坪、塔身一三・六坪、高さ三〇メートル)タイ国皇帝より贈られた仏舎利を奉安し、昭和三一年一一月完成した。
10 大師堂 十二坪、昭和三七年三月移転改修工事を完成した。
以上の外に、琵琶滝には参籠堂(昭和三五年一二月再建、二階建約一〇〇坪)および不動堂(昭和三六年一二月改修)があり、蛇滝には参籠堂及び青龍堂がある。
次に当寺所蔵の制札文書のおもなものは次のごとくであるが、この外約二、〇〇〇点の近世文書を有し、寺院所蔵文書として、当地方最高のものである。
1 永禄三年一二月二八日、北条氏康寺領寄進状一通
2 永禄四年二月、上杉輝虎小仏谷関制札一通
3 永禄四年二月、上杉輝虎椚田谷関制札一通
4 永禄四年二月晦日、太田資正案内谷制札一通
5 永禄四年二月晦日、太田資正小仏谷制札一通
6 天正三年一一月二一日、北条氏照開帳制札一通
7 天正三年(?)三月二日、北条氏照寺領寄進状一通
8 天正一七年(?)己丑五月一〇日、八王子北条氏文書一通
9 天正一八年(?)寅二月一〇日、同制札一通
10 天正一八年三月一〇日、横地与三郎文書一通
11 天正一九年(?)卯四月二七日、大久保長安竹木制札一通
12 慶長一〇年八月、台徳院軍勢条目一通
また当山所蔵の彫刻絵画のおもなものは左のとおりである。
(彫刻)
1 木造不動明王立像および木造二童子立像(奥ノ院不動堂) 室町時代の作
2 木造地蔵菩薩立像(本堂) 藤原時代の作
以上は共に昭和三七年三月二八日都重宝に指定されたものである。
(絵画)
1 寒山拾得一幅(伝牧渓筆)
2 不動三尊図一幅
3 不動三尊図一幅(伝妙沢筆)
4 揚柳観音図一幅
5 蜀葵に鶏図一幅
6 弘法大師図一幅
7 東坡帰盧図一幅
(八王子市史より)


いいお墓

薬王院所蔵の文化財

  • 薬王院仁王門(東京都指定有形文化財)
  • 薬王院大師堂(東京都指定有形文化財)
  • 薬王院飯綱権現堂(東京都指定有形文化財)
  • 薬王院不動堂(東京都指定有形文化財)
  • 木造不動明王立像および木造二童子立像(奥ノ院不動堂)(東京都指定有形文化財)
  • 木造地蔵菩薩立像(本堂)(東京都指定有形文化財)
  • 薬王院スギ並木(東京都指定天然記念物)
  • 薬王院タコ杉(東京都指定天然記念物)

薬王院仁王門

高尾山薬王院有喜寺本堂前に南面して、三間一戸、八脚門、単層、寄棟造、杮葺型銅板葺屋根の仁王門が建立されています。向かって左側には密迹金剛力士像(吽形)、右側には那羅延金剛力士像(阿形)が安置されています。仏法守護のための仁王像を安置する仁王門は、必ず三間の桁行(間口)で、一つの出入り口を備えた三間一戸形式で建てられています。薬王院仁王門の各柱間寸法は、桁行中央の間二・四三m、仁王像を安置する両端間一・八二m、桁行全長六・〇七mとなります。
梁間(奥行き)は二間で、一間の寸法は桁行両端間と同じ一・八二m、梁間長三・六四mです。柱間の平面形は、左右前後ともに対称となっています。この柱を含む構造材には、弁柄が塗布されています。寄棟造の屋根はかつて厚さ三mmほどの板を重ねて葺いた杮葺でしたが、現在は杮葺型銅板葺となっています。仁王門の建立年代を示す直接の資料はありませんが、金剛力士像胎内から発見された修理銘板の記載内容と建築様式から、一七世紀後半から一八世紀前半頃に建立されたと推定されています。(東京都教育委員会掲示より)

薬王院大師堂

建立年代についての確実な資料は欠いていますが、延宝五年(一六七七)薬師堂炎上の際に類焼し、その後、再建されたものと推定され、建物の様式技法から江戸時代中期は下らないと考えられます。特に、向拝・虹梁・木鼻及び海老梁などの絵模様彫刻技法は、建立年代を遡る古様式を具備しています。『新編武蔵風土記稿』によれば、当時は大日堂と称し、「薬師堂ニ向テアリ、三間四方南向ナリ」という位置にありました。その後、三回にわたる大改修を経て、現地に移されていますが、近世中期の社寺建築様式の傾向を知る上で、古様式を墨守する流派の存在を示すものであり、建築史上貴重なものとして東京都の有形文化財(建造物)に指定されました。桁行三間、梁間三間、向拝一間付きで背面に一間通りの内陣並びに中央間一間、両端間各市間の仏壇及び位牌壇を付設しています。屋根は宝形造銅板葺です。(東京都教育委員会掲示より)

高尾山不動堂

薬師信仰と飯綱信仰の霊山として名高い高尾山薬王院有喜寺には、数多くの堂宇が建立されています。不動堂は、それらの諸堂の中でお一番奥まった急峻な尾根上に建立されています。もともとは現本堂の位置にあった護摩堂を明治四三年頃に移築し、不動堂としたものです。不動堂は宝形造(平面形が正方形または八角形で、屋根面が一つの頂点に集まる建造物)の小さな堂宇ですが、桁行・梁間ともに三間(六・二六m)、四周に高欄を備えた縁をめぐらし、東側に桁行一間(二・一七m)の向拝を設けています。内部の床は拭板張り仕上げで、正面と両側面側が畳敷となっています。平成一三年に修理が完了し、外周の柱・縁・建具等は、鮮やかな赤漆の色彩が甦りました。建立年代を示す資料はありませんが、建築様式から一七世紀後半頃に建立されたと推定されています。堂内の奥側には、日本の来迎柱を建て、その前に堂と同時代といわれる附の須弥壇が置かれ、室町時代以前の作といわれる「木造不動明王及び二童子立像」(都有形指定文化財)が安置されています。(東京都教育委員会掲示より)

薬王院の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 八王子市史