大澤山宗印寺|日野七福神の布袋尊、武相卯歳観音霊場
宗印寺の概要
曹洞宗寺院の宗印寺は、大澤山と号します。宗印寺は、中山助六郎照守(寛永10年1633年卒、法名無相院可山宗印)が開基、一東天樹(寛永12年1635年寂)が開山となり創建、第三世大本恵立の代に大澤山宗印寺と号したといいます。明治6年平山の大平山大福寺を合寺しています。境内には、大福寺より移設された平山季重墓・日奉地蔵や、平山薬師が祀られています。武相卯歳観音霊場44番、日野七福神の布袋尊です。
山号 | 大澤山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗印寺 |
住所 | 日野市平山6-15-11 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宗印寺の縁起
宗印寺は、中山助六郎照守(寛永10年1633年卒、法名無相院可山宗印)の願いにより永林寺第七世傑秀賢鷟大和尚(寛永14年1637年寂)が庵室を創建、一東天樹(寛永12年1635年寂)を開山とするといいます。第三世大本恵立の代に大澤山宗印寺と号したといい、明治6年平山の大平山大福寺を合寺しています。
新編武蔵風土記稿による宗印寺の縁起
(平山村)宗印寺
除地、五畝、禅宗曹洞派、由木村永林寺の末、大澤山と號す、開基は中山助六郎照守、寛永十年正月廿二日卒、無相院可山宗印と法諡す、開山は一東天樹と云、寛永十二年正月廿六日寂す、されど起立以来わづかの庵にして、未だ寺號も唱へざりしを、第三世大本恵立の時に至りて、始て寺山號をみゆるしありしと云、本尊正観音長三尺ばかり、客殿五間に七間なり。(新編武蔵風土記稿より)
日野市史による宗印寺の縁起
宗印寺 平山六-一五-一一
万福閣と号し、曹洞宗、由木(八王子市)永林寺末である。本尊聖観世音菩薩。境内は昔安行寺無量院のあったところといわれている。開山は永林寺第七世傑秀賢鷟大和尚(寛永十四年[一六三七]五月四日寂)といい、開基を中山助六郎照守(寛永十一年[一六三四]正月二十二日卒去)とする。
縁起によれば、本寺の裏手に当たる地に一体の聖観世音菩薩像が安置されていた。無量院の廃庵内ではなかったかといわれる。その菩薩は人々の求めには必ず応え、願いの叶えられぬことはなかった。地頭の中山照守は永林寺の傑秀賢鷟禅師に懇請して、その地に一庵を建て尊像を安置したのがはじまりであったという。慶長四年(一五九九)のことである。その後六、七名の住持が入れ替わったが、一寺を成すには至らなかった。
寛文三年(一六六三)になって一東天樹はひとえに檀徒を募り、新たに一寺を開いた。一東天樹大和尚を当寺開山とするのはこの故である。それから四十二年後の宝永二年(一七〇五)、堂宇も朽損したので時の三世大本慧立大和尚が、諸人の合力を得て普請にかかり、同年六月二十日落成した。このとき開基中山照守の戒名宗印居士をとって、大沢山宗印禅寺と号した。下って明治初年平山大福寺が無住となり、同十七年(一八八四)当寺に併合した。
明治初期からの宗印寺は荒廃甚だしかった。大正中期住職が当山の再興を本願しているとき「当山に大神あり、寛政年中に山城国より正一位稲荷を武蔵国多摩郡平山(当山)に祭祀しあり、よく堂内を見るべし」との霊示を受け、直ちに調べたところ、庫裡の神棚に一尊像を拝したという。この神体(秘尊)を平山万福稲荷大明神として本堂南西の高台の堂宇に奉祀し、守護神とした。以釆、大沢山の山号を呼ばずに万福関と称するに至った。現在は万福皇太神として稲荷の称号を廃している。
本尊聖観世音菩薩は本堂内陣の中央に安置してある。高さ約一尺三寸、不動尊と多聞天を脇侍とする。武相観音霊場の第四十四番札所でもある。特に卯年には巡拝の人々が後を絶たない。堂内には別に千手観世音菩薩立像が安置される。もと大福寺の持仏であったが明治十七年(一八八四)当寺に移された。
薬師堂
昭和十八年平山地区に都道が開設された際、その道筋にあった薬師堂をこの地に移したものである。古くから平山の寅薬師と呼ばれ安産と眼病平癒を祈願した。毎月二十二日の縁日には地元の老若男女が集い読経念仏の供養がなされ、十月二十二日にオコモリ供養が行われる。
日奉千体地蔵堂
本尊地蔵菩薩坐像、高さ約七寸、木造漆箔像を中央に左右それぞれ五百体の地蔵像を安置する。千体地蔵は高さ三、四寸の小像で、台座は共木、像身と円光に金泥が塗ってある。補充したものがあるとはいえ、文字通り千体地蔵として完全な形を伝えている。
地蔵堂内には、平山季重坐像が安置されている。高さ約一尺一寸、寄木造。製作年代は、江戸時代前半ごろと考えられる。なお山内には右のほか弁財天坐像・水子地蔵菩薩・法源堂(堂中に五重塔を収め釈迦牟尼仏を安置)・如意輪堂・秋葉堂(秋葉大権現を主神とし、左右に三峰権現と金比羅権現とを奉祀してある)・大光明地蔵菩薩像・慈世観世音菩薩像・華供養塔・季重五輪塔(都旧跡)等がある。(日野市史より)
宗印寺所蔵の文化財
- 都旧跡平山季重墓(都指定有形文化財)
- 木造平山季重坐像(市指定有形文化財)
- 木造地蔵菩薩坐像および千躰地蔵(日奉地蔵)(市指定有形文化財)
- 木造薬師如来坐像(平山薬師)(市指定有形文化財)
都旧跡平山季重墓
平山季重は平安末期、鎌倉初期の東国武士の典型である。平山氏は武蔵七党の中の一つ西党に属し宗家日奉氏の分派になる。秋川流域を中心として後代この地を支配した小宮氏は平山氏の同族で政権の移転によって改姓したのではないかという説もある。
建保元年(一二一三)五月の和田の乱で横山党は滅亡したが、同族の平山氏はこの乱に加担しなかったと思われる。季重は一の谷合戦に際し熊谷直実、直家父子とともに有名をはせたことが活写されているように、豪放大胆な関東武士の面影をあますところなく発揮し、さきの保元、平治の乱にも活躍した人物である。
五輪塔の高さは一・七メートル、旧平山小学校内にあったが、大福寺が明治六年(一八七三)に廃寺になったので現在地に移転された。この墓は季重二十五代の孫松本藩の平山季長が追悼のために建立したものである。(東京都教育委員会掲示より)
木造平山季重坐像
平山季重は武蔵七党の武士団に属し、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源氏に従い活躍した武将だが、晩年には仏門に帰依したと伝えられる。像は小形ながら、基本的には頭、体部を通じ前後二材と両側面各一材、それに膝前一材を用いた寄木造である。剃髪し、袈裟を着けた法体形に表される。太い眉、遺志的な口元は肖像彫刻として像主の個性をよくとらえたものと思われるが、手なれた技法や作風から江戸時代前期の制作と考えられる。故人の遺徳を追慕して造立されたものであろう。(日野市教育委員会掲示より)
木造地蔵菩薩坐像および千躰地蔵(日奉地蔵)
本尊地蔵菩薩坐像を中央に、左右両脇にそれぞれ500体の地蔵を安置する。本尊地蔵は左手に宝珠を持ち右手に錫杖を持つ延命地蔵で、漆箔を施されており、小像ながら優品である。千躰地蔵は、台座も共木で像身に金泥を施してあり、背面には寄進者と思われる人なが記される。後補のものであり、かつ2体を欠失するが、千躰地蔵としてほぼ完全な形を伝えており貴重である。
日奉地蔵の名は、日奉氏から出た平山季重が本地蔵堂を草創したという伝えに基づく。現在の本尊、千躰地蔵は共に江戸時代前半のものと推定される。(日野市教育委員会掲示より)
木造薬師如来坐像(平山薬師)
左手に薬壷を持つ寄木造りの坐像で、高さ33cm、朱衣金体に彩色されている。薬師如来は人々の心身の病苦を救うとされるが、この薬師は平山薬師と俗称され、特に眼の病を治すことで厚く信仰されている。平山薬師は、江戸時代初期にこの地域の領主中山照守によって創祀されたと伝えられており、本薬師像もその頃の制作と考えられる。(日野市教育委員会掲示より)
宗印寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 日野市史