愛宕山石田寺|野七福神の福禄寿、多摩八十八ヶ所霊場
石田寺の概要
真言宗智山派寺院の石田寺は、愛宕山地蔵院と号します。石田寺は、慶興が吉祥坊と号して康安元年(1361)に草創、その後衰微したものの、天文13年(1544)の洪水で普濟寺の方より観音像が流れ着いたことからこれを安置、文禄2年(1593)に慶心沙門が一宇を建立して石田寺と号し、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領7石の御朱印状を拝領したとます。多摩八十八ヶ所霊場86番、日野七福神の福禄寿です。
山号 | 愛宕山 |
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院号 | 地蔵院 |
寺号 | 石田寺 |
住所 | 日野市石田1-1-10 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
石田寺の縁起
石田寺は、慶興が吉祥坊と号して康安元年(1361)に草創、その後衰微したものの、天文13年(1544)の洪水で普濟寺の方より観音像が流れ着いたことからこれを安置、文禄2年(1593)に慶心沙門が一宇を建立して石田寺と号し、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領7石の御朱印状を拝領したとます。
新編武蔵風土記稿による石田寺の縁起
(石田村)石田寺
村の南の方にあり、御朱印寺領七石の内なり、愛宕山地蔵院と號す、新義真言宗、高幡村金剛寺の末寺なり、寺傳に云、當寺は康安元年、開山慶興の草創にして、始は吉祥坊と號せしが、いくほどなく永和三年の比より衰微して、庵室をかまへ、纔にそのあとを存ぜしのみなりしが、それも一旦たへはてしを、天文十三年七月九日洪水の時、同郡立川の普濟寺の方より観音の木像流れ来り、ここの岸上にとどまりければ、とりあげて古の庵跡へ堂を造りて安置せり、そののち文禄二年沙門慶心なるもの、別當職となりて一宇を建立し、石田寺と號せりと云、これによれば、古は境内なべて観音堂の地にて、全く別當寺なりしとみゆ、本尊地蔵木の立身にして、長二尺五寸、作知れず、又いかなる故にや、愛宕の本地将軍地蔵の像一軀あり、是も愛宕山と號するを合せおもへば、古きものなるべし、客殿は八間に五間、南向なり
観音堂。客殿の向にあり、三間に四間、十一面観音の長、二尺五寸なるを安置す。(新編武蔵風土記稿より)
日野市史による石田寺の縁起
石田寺 石田一四五
愛宕山地蔵院と号する真言宗智山派の寺院で、高幡の金剛寺末であった。
本尊は地蔵菩薩、高さ二尺五寸の木彫立像である。境内は五百七十六坪。本堂は南向き、間口八間・奥行五間、寄棟造りで萱葺きを亜鉛板で巻く。建築年代は不明である。本堂に向かい北向きの観音堂が建っている。
元禄九年(一六九六)の再建と伝えられたが、昭和五十一年に改築された。十一面観世音菩薩、高さ二尺五寸の木彫立像を安置する。
寺伝によれば康安元年(一三六一)開山慶興の草創、初めは吉祥坊と号したが、ほどなく永和三年(一三七七)のころから衰微して、わずかに庵室にそのあとをとどめていたが、それも一旦は絶えはてていた。ところが、天文十三年(一五四四)七月九日の洪水の時、立川普濟寺の方から、一体の観音の木像が流れて来て岸の上に止まった。そこで、これを拾い上げ、庵跡に堂を建て安置した。その後永禄二年(一五五九)沙門の慶心が別当職となって一字を建立、石田寺と号したという。
江戸時代に入り慶安元年(一六四八)七石の朱印地を寄進され、以後将軍代替わりの都度書き替えられて幕末に及んだ。
本寺は多摩四国八十八か所霊場の第八十六番の札所となっている。(日野市史より)
石田寺栞による石田寺の縁起
浅川の流れの前に多摩川のせせらぎを背に聞く、多摩八十八ヶ所第86番札所・日野七福神めぐり(福禄寿)、高幡不動尊金剛寺末寺、真言宗智山派の寺院です。境内には樹齢400年以上の「かやの木」、その脇には新選組副長土方歳三の墓があり、近くに生家(歳三資料館)があります。
当山は康安元年(1361)天下泰平国家安穏を祈願する為の開山堂を建て、吉祥坊慶誉が堂守となりました。その後、永和3年(1377)、一時は廃寺となりましたが、天文13年(1544)7月9日の多摩川付近の大洪水で十一面観音がこの地に漂着、後に観音堂を建立して安置しました。これが「北向観音」と呼ばれ現在も大いに信仰を受けています。その後、文禄2年(1593)慶心沙門が観音堂とは別に本堂を再建して石田寺(せきでんじ)と名づけられました。之を中興開山と称し、徳川時代には、御朱印に依り高七石が寄せられました。
寺宝は元享2年(1322)から宝徳3年(1451)の板碑を多く所蔵しています。(石田寺栞より)
石田寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 日野市史