高幡山金剛寺|高幡不動尊、真言宗智山派の別格本山、関東三十六不動
金剛寺の概要
真言宗智山派寺院の金剛寺は、高幡山明王院と号し、高幡不動尊として著名な真言宗智山派の別格本山です。金剛寺は、平安時代の初期に慈覚大師(円仁)が清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立して創建、建武2年(1335)大風により大破したものの儀海上人が中興、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)寺領30石の御朱印状を拝領したといいます。多摩八十八ヶ所霊場88番、関東三十六不動9番、関東百八地蔵霊場100番、武相不動尊霊場28番、日野七福神の弁財天、東国花の寺百ヶ寺です。
山号 | 高幡山 |
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院号 | 明王院 |
寺号 | 金剛寺 |
住所 | 日野市高幡733 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金剛寺の縁起
金剛寺は、平安時代の初期に慈覚大師(円仁)が清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立して創建、建武2年(1335)大風により大破したものの儀海上人が中興、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)寺領30石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による金剛寺の縁起
(高幡村)不動堂
向拝付の堂にて二間半に二間、唐破風を設く、本尊の不動は弘法大師の作にして、木の坐像、長一丈にあまれり。左右に二童子の立像たてり、是は長八尺餘、化身の人の作なりと云、それらいかにと云に、何れの年にかありけん、異僧来て靈像の不動に二童子なきこと惜むべし、予作りて安置せばいかんと、住僧承諾せしかば、やがて一室に入て戸ざしをかたくし、出ざること数日にして、功を畢りて辞し去りしが、三町許がほど送る比、彼僧忽に見えずなりけり、土人等奇異の思をなし、よりて其地を別旅と號し、頓て社をたてて別旅明神と號して、村内の鎮守とし、二童子彫刻の地へ稲荷を祀りて、寺内の鎮守とせりといふ、抑此堂の創建は清和天皇の御願によりて、慈覚大師の草創する所なり今楯間に文永年中の鰐口をかく、その文によれば古き堂なる事證とするに足れり、其図左に出せり、此文によれば陽成天皇の御宇御再建あり、この時頼□朝臣この地に下向ありて、八幡に崇め祀り、第三の建立は文永十年にして、美作介某大檀那たりしと云ことまでも詳なり、この後応永年中に至りて沙門乗海が堂宇再興の勧進帳あり、其文に
(中略)
この文によれば、大寳以前に巳に草創ありしなり、されば弘法大師より前にも、何人か庵室など結びしを、後に大師この本尊を作りて安置し、その後古鰐口の刻文のごとく、慈覚大師の中興せしならんと、かく疑ふべきこと多くして、信用すべからず、なほ別當寺のくだりの下に辨別せり。
茶湯石。堂の後にあり、里俗に服ぬけ石と呼ぶ、喪服のもの百日に至れば、當所へ来り茶湯料を納め、別當所にして茶を煎じ持来て、此石に濯ぐ、自然石にして上の方細く、下に到て太し、高さ二尺七寸程。
古碑三基。茶湯石の側にあり、一は応仁の二字纔に存せり。
五郎権現祠。同邊にあり、三尺四方の宮作にして、覆屋あり、境内の鎮守なり、祭神は八幡・稲荷・丹生・高野・青龍権現の五座なり。
仁王門。堂の前十間許隔ててあり、四間に二間半、力士の像、作しれず。
別當金剛寺。境内は不動堂に通じてあり、これも御朱印地の内なれば、わきて定れる坪数なし、新義真言宗、京都智積院の末なり高幡山と號す、寺領三十石を賜はる、御朱印の文に、橘樹郡の内三十石并境内山林不入の由を載す、故に今も境内及び寺領の内のみは、橘樹郡と號せり、寺僧の傳へにいふ、初め御朱印を賜はらんことを奉りしとき、故あつて橘樹郡まで出て願ひあげしゆへ、御朱印の筆者同郡の寺とおもひ、かく書せしなりと、左もあるべきにや、乗海法印が応永年中に書せし縁起によれば、大寳年中の起立なりと云、されど其比は何人のひらきしことをいはず、今は慈覚大師を開山とせり、中興開山義海上人は、建武二年三月寂せり、これより現在まで、二十六世に及ぶと云、
惣門。仁王門にならびてあり、東向なり、柱間八尺。
本堂。門の正面にあたれり、其間三十四五間をへだつ、十二間半に九間なり、本尊不動、作しれず、木の坐像なり、長四尺五寸。
鐘楼。本堂の前にあり、鐘銘左の如し(鐘銘省略)
寺寳。武者所平山左衛門尉季重太刀一腰。無銘にして白鞘なり、されどその鞘もいとふるきものなり、中刃三尺、中心八寸六分、薙刀造表裏中刃の中ほどに不動の二字を彫る。
寳印。木印なり、牛王寳印と號す、昔弘法大師不動彫刻のとき、餘材を以て造りし印なりと云傳ふ、其図左のごとし、片面に不動の種字あり、片面に(まんじ)を刻せり、今も公へ奉る符に押すと云、木は何と云ことをしりがたけれど、白檀の如きものなり。
塔頭長福寺。惣門の左にあり、四間に三間半の堂也。(新編武蔵風土記稿より)
日野市史による金剛寺の縁起
金剛寺 高幡七三三
高幡山明王院と号し、真言宗の別格本山や京都智積院を総本山とする関東屈指の古刺であり、高幡不動として広く知られている。
本尊寺は徳川家康が関東に入国した翌天正十九年(一五九一)に三十石の朱印領を寄進されたが、その文には不動堂領とされ、かつ橘樹部高畠村とされていたので、境内と寺領だけは橘樹郡と称していた。将軍の代替わりの節は独礼寺の格式であり、また僧侶の学問所関東十一談林所の一つであった。所属の末寺は、もと三十か寺を有したが、明治六年(一八七三)、十三か寺を廃して十七か寺となった。第二次大戦後は総本山帰一して本末関係を失ったが、法類としての関係は従前と変わりはない。寺記によれば、安永八年(一七七九)十二月二十三日夜火災にあい、本堂・僧坊・宝庫等を焼失したが、本尊大日如来は安泰であった。天明年間(一七八一~一七八九)智積院二十七世英範僧正は、当寺に隠退後寛政九年(一七九七)大日堂を再建し、このとき「鳴り竜」の天井を完成した。
境内の広さは、境内地四千数百坪と、接続する山林を合わせて三万坪といわれている。境内には本堂(大日堂)・不動堂(国重要文化財)・仁王門宙(重要文化財)をはじめ、庫裡・書院・土蔵・長屋門等を備えていたが、庫裡以下は昭和三十~四十年にとり払われ、その跡地に檀信徒会館・大講堂等が完成した。
また従来から五部権現社(東京都重宝)・大師堂・鐘楼・弁天堂・鎮守稲荷社・豊泉閣等を配置する。
不動堂・仁王門・五部権現杜の三棟は、昭和三十一年七月一日文化財保護委員会の許可を得て、根本解体のうえ復原修復を行い、同三十三年十二月三十一日に竣工した。
稲荷社は修復されて名称も正一位昌徳稲荷となり、昭和四十一年には交通安全祈願所として降魔殿が建立された。
五重塔は早稲田大学工学部教授渡辺保忠の設計により昭和五十年三月着工、同五十五年五月五日竣工した。塔高は基壇人工盤面より相輪上端まで約四十メートル、和様三手先出組、青銅瓦葺きである。
鐘楼はもと山門の北側にあったが、昭和初年大日堂東南の丘陵中腹に移された。これに懸かる梵鐘は、貞享三年(一六八六)に三沢村の土方八右衛門正広が寄進したもので、鋳工は横川(八王子市)加藤三郎右衛門宗次である。昭和五十四年には、五重塔建立を記念する梵鐘一口が鋳造され、これまでの跡地を拡張整理して、和風袴腰型入母屋造、瓦葺きの鐘楼一棟が建立された。
本堂(大日堂)本尊は大日如来、金剛界坐像で、高さ二尺七寸七分、木心乾漆である。ほかに阿弥陀如来・薬師如来・興教大師・歓喜天・大黒天・金毘羅尊・吒枳尼天の各像が安置されている。
不動堂-本尊は不動明王、本心乾漆坐像で、鎌倉時代の作。高さ九尺四寸五分、膝幅七尺六寸、忿怒三昧耶形の巨像である。火炎光背の刻銘は、昭和二十五年不動堂に付随して国の重要文化財に指定された。矜羯羅・制托迦の両童子は木心乾漆、高さ六尺余である。
五部権現社殿付神牌五基(東京都重宝)-五部権現社は、金剛寺の境内鎮守として創立された社殿である。天喜四年(一〇五六)源頼義の奥州出向(前九年の役)のとき八幡杜を勧請して寺の鎮守とし、のちに四社を合祀して現在の五部権現にしたと伝えられている。現社殿は寛文十一年(一六七一)の建立である。奉安の神牌五基には、暦応三年(一三四〇)三月二十八日造の年号が刻まれている。本地垂迹思想にもとずく本地仏と垂述神の名を表と裏に彫りこんである。高さ的一尺七寸、台座があり剣形で漆塗り金箔置きである。社殿は一間社流造、屋根栩葺形銅板葺きで、向拝付東面である。
大師堂-弘法大師像が安置されている。昭和九年再興、多摩四国八十八か所、山内四国八十八か所それぞれの第八十八番打ち止めの霊堂である。
弁天堂-弁財天詞、福徳弁財天を安置する。<薬王寺よりか>
降魔殿(交通安全祈願霊堂)-昭和四十一年建立 不動明王坐像 高さ約一尺を安置する。。(日野市史より)
境内掲示による金剛寺の縁起
真言宗智山派別格本山高幡山明王院金剛寺は古来日本一と伝えられる木彫の丈六不動三尊像をご安置する寺で、高幡不動尊と呼ばれて親しまれている。
古文書等に大宝以前の草創、行基菩薩の開基と記されているが、平安時代の初期に慈覚大師(円仁)が清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立したのに始まる。
後、建武二年の大風によって山中の堂宇が倒壊し、時の住僧儀海上人が麓に移建したのが現在の不動堂で、室町時代再建の仁王門も関東有数の古建築である。
鎌倉時代以降の高幡不動尊は十院不動堂とも呼ばれ、真言宗武蔵方の名だたる談義所(学問所)であった。
江戸時代安永八年の大火で大日堂を始め多くの伽藍と重宝を焼失したが尚、約二万点の古文化財を蔵している。
高幡不動尊は新撰組の副長、土方歳三の菩提寺で境内地は三万坪余り、史蹟・文学碑も多く桜(三〇〇本)あじさい(七五〇〇株)もみじ(古木三五〇本・若木一〇〇〇本)の名所でもある。山内に八十八ヵ所の弘法大師像がまつられ約一時間で巡拝できる。(境内掲示より)
金剛寺所蔵の文化財
- 不動堂(重要文化財)
- 仁王門(重要文化財)
- 五部権現社殿(都指定文化財)
- 不動明王像(重要文化財)
- 矜羯羅童子像(重要文化財)
- 制だ迦童子像(重要文化財)
- 弁財天十五童子(都指定文化財)
- 鰐口(重要文化財)
- 五部権現神牌(重要文化財)
- 弘法大師二拾五箇條お遺告(重要文化財)
- 勧進帳(重要文化財)
- 像内文書六十九点(重要文化財)
- 理趣経曼荼羅(重要美術品)
- 八箇大事勝覚筆(重要美術品)
- 神護寺経不必定入定入印経(重要美術品)
- 金剛寺文書(都指定文化財)
金剛寺不動堂
不動堂はもと山上にあったが、建武2年(1335)の大風で倒壊し時の住僧儀海上人の発願によって、康永元年(1342)現在地に移建された。昭和31年の解体復原修理の際、江戸時代の彫刻群等、後世のものは全部取り除かれ、創建時の豪壮・質素な堂に復原され銅板葺となった。
尚堂内安置の丈六不動明王像ならびに両童子像(平安時代)・不動明王像内文書69枚(南北朝時代)及び鰐口(鎌倉時代・文永10年銘)はすべて重要文化財に指定されている。(日野市教育委員会掲示より)
金剛寺仁王門
仁王門は室町時代に当初、楼門として計画されたが、途中何からの理由で計画変更され、上層の主要部を覆うような形で屋根がかけられ、近年まで外観は単層であった。昭和34年、解体修復修理の際、楼門として復原され、銅板葺となった。
仁王尊は室町時代のものと推定されている。楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正(号泊如)の筆である。(日野市教育委員会掲示より)
金剛寺旧五部権現社殿
金剛寺の境内鎮守として創立されたもので、寺伝によると、源頼義が奥州反乱鎮圧に際し、ここに八幡社を勧請し、のちに稲荷、丹生、高野、清瀧権現を合祀して五部権現と称するようになったと伝えられます。この五部権現社は、現存する棟札により、暦応三年(一三四〇)に創建され、寛文一一年(一六七一)に再建された江戸時代前期の社殿として類例の少ない貴重な文化財です。建物の構造は、一間社流造、銅板葺、向拝付きで、大きさは桁行一・五二m、梁間一・三〇mあります。木部全体に朱の漆が塗られ、彫り物の刻線には墨、さらには向拝蟇股には群青などの鮮やかな彩色が施されています。社殿に安置されていた五基の神牌には、暦応三年(一三四〇)二月二八日造の銘があり、本地仏の垂迹神の名を刻し、国の重要美術品に認定されています。なお、五部権現社殿は奥殿建設工事に伴い、平成八年大日堂前に移築されました。(東京都教育委員会掲示より)
金剛寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 日野市史