穴澤天神社|稲城市矢野口の神社

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穴澤天神社|延喜式式内社、多摩八座、旧郷社

穴澤天神社の概要

穴澤天神社は、稲城市矢野口にある神社です。穴澤天神社の創建年代は不詳ですが、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている多摩八座のうちの一社と比定されています。明治6年郷社に列格、大正7年(1918)国安神社 大己貴命(大国主命)を合祀したといいます。

穴澤天神社
穴澤天神社の概要
社号 穴澤天神社
祭神 少彦名命、大己貴命、菅原道真公
相殿 -
境内社 弁天社、稲荷社、山王社、神明社
住所 稲城市矢野口3292
祭日 穴澤獅子舞・江戸の里神楽8月21日、例大祭8月25日
備考 延喜式式内社、旧郷社



穴澤天神社の由緒

穴澤天神社の創建年代は不詳ですが、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている多摩八座のうちの一社と比定されています。元禄7年(1694)に地頭の加藤太郎左衛門が社殿を改修し、天満神社を合祠、明治6年郷社に列格、大正7年(1918)国安神社 大己貴命(大国主命)を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による穴澤天神社の由緒

(矢野口村)穴澤天神社
除地、凡六千三百坪、村の巽城山の中腹にあり。天満宮を相殿とす。「延喜式神名帳」当郡小社八座の内、穴澤天神社といへるは、則この社なりと云。「風土記」爾布田郷の下に云。穴澤天神圭田三十六束、三毛田、考安天皇四年壬辰三月、所祭少彦名神也と、これによりてみれば則この地、もとは布田郷に属せし所にて、後世川流の變遜なとありてより、分割して別村となりたるが、又祭神も少彦名命なるを、天神の号より後人あやまり覚えて、妄に社を尊くせんがために、天満宮を配し祀りて、今は鳥居も天満宮の扁額あるに至れり、又何者か縁起をつくりて云、鎌倉右大将頼朝の時、稲毛三郎重成、当国小澤七郷を領せし比、此地にすめる農夫の子十二三歳の童俄に狂気を起し、口はしりて云、此山に一社を建て天満天神を祀らば、百日の間に験あらんと。よりて正冶元年七月五日農夫こぞりて一社を草建せしかば、やがて水溢して玉川の瀬五町ほと北へ移りけると。これよりさき玉川此山の麓を流れて、里人のすめるあたりもいとせばく便あしかりしば、ここに於て若干の平地出来しかば、其まま水田をひらき、村内さかへけり。かの童子が子孫梅元坊とて、別当寺なりしが、遥の後地頭加藤太郎左衛門の時、かの梅元坊掃部といひしものに、屋敷をあたへしとて、その旧地山の麓に残れりと云々。又口碑に傳へたるは、昔の神体はいつの比か紛失して、今の神体とする所は後に作りしものなりと云。されどもこれも左まで近きものともみへず、その図右の如し。又天満宮像も別当所にあり、これは後世渡唐の天神と称するものなり。かかることの誤より式内の神と云ことも、おのづから世にしらざるやうになり行し故にや、三田領棚澤天神、及び氷川村羽黒権現相殿に祀れる天神など、いづれも、式内穴澤天神なりと云説あるに至れり。棚澤村のは、穴澤を誤りて後に棚澤とし、氷川村のは社の邊に足澤と云地名あるより、これもあなざはを唱あやまりしなどといへども、うけがたし、猶かの二村、神社の條と照し見るべし。その社を穴澤と号することは、さたかなる傳へもあらざれど、里人のいふ所は、社前の坂を下りて清水あり。その向なる山の切岸に穴あり。今は正面に白蛇の形を安し、穴の口に大黒・毘沙門二天の像あり。此穴春より秋までは草木おひしけりて入ことあたはすと也。穴の前なる清水は近郷百村の境大夫谷土と云。高岸の崩れたる所より涌出して、細谷川となり。ここへ流れ来ると云。穴澤の号はこれよりおこりしならんと。
本社。宮造にて覆屋二間半に三間西向なり。例祭七月廿五日。
拝殿。二間に二間半。
鳥居。石にて作る両柱の間八尺。(新編武蔵風土記稿より)

稲城市掲示による穴澤天神社の由緒

穴澤天神社
当社の主祭神は、少彦名大神を御祀りした社である。創立は孝安天皇4年3月で、後に元禄7年社殿を改修し、菅原道真公を合祀する。例大祭は毎年8月25日で、当日は神職山本家に伝わる、武蔵流の指定文化財、江戸の里神楽が奉奏され、又、三頭の獅子と天狗により、神社入口の石段を、舞いながら勇壮に登る、市指定の獅子舞が奉納される。
境内には江戸時代の終わり頃に、筆学を業とした原田金陵の功績をたたえて建てられた、市指定文化財の筆塚がある。
現在の社殿は昭和61年12月に修復した。(稲城市掲示より)

境内掲示による穴澤天神社の由緒

穴澤天神社略誌
孝安天皇四年の創建にして、主祭神は少彦名命を御祀りした社で、この命は人民に医療法や造酒の術を授けられ、特に薬の神から健康増進の神として、又、国土経営に偉功を遺された著名な御方であります。
天正十八年(1590)に社殿を再建し元禄7年(1694)社殿の造営が行われ、その時菅原道真公を合祀され、公は古くより文学の神として親しまれ、広く仰ぎ祀られております。
大正七年(1918)国安神社 大己貴命(大国主命)を合祀、縁結、開運の神として以後崇敬されており、境内下三澤川右岸沿いに、横穴巌窟がありましたが、昔の巌窟は崩れ、現在の洞穴は二度目ですがこれがすなわち穴澤の起源であります。この洞窟内には元石仏の安置跡も残っており、明治4年神仏分離の際、石仏像は当時別当職であった威光寺に移さられました。
延喜式内神明帳所載(延喜5年、905年撰上)に記されている古社で多摩八社の内一社であり、明治6年郷社に列せられました。(境内掲示より)


穴澤天神社所蔵の文化財

  • 穴澤天神社の筆塚(稲城市指定文化財)
  • 穴澤天神社獅子舞(稲城市指定文化財)
  • 江戸の里神楽(国指定重要無形民俗文化財)

穴澤天神社の筆塚

筆塚は書道の師や文筆家が死亡した際に、その人物の功績をたたえて門弟たちによって建てられた供養塔である。
この筆塚は江戸時代の後期に筆学を業とした原田金陵(天真堂という)の功績をたたえて、文久3年(1863)に、矢野口村・長沼村・押立村の門弟164名によって建てられたものである。
原田金陵は江戸時代に現在の府中市で筆学を業として原田塾を開いた原田玄蕃(誠堂という)の弟子で、川崎市多摩区菅の福泉寺(今は廃寺)に住んで手習塾を開き、矢野口においても教えていたと伝えられる。
明治時代を迎える直前の、この地の教育の記録として重要な碑である。(稲城市教育委員会掲示より)

穴澤天神社獅子舞

毎年八月二十五日の祭礼の日に奉納される。
獅子舞の起源は明らかでないが、天正年間から江戸時代の初めにかけて、村々に獅子舞が大変はやったことが文献に残っており、この獅子舞も、その時期にあたると考えられる。
獅子舞の様式は青渭神社獅子舞と同じく、大獅子・女獅子・求獅子の三頭の獅子と天狗によるものである。祭礼当日は矢野口自治会館(以前は神社代表役員の家)から穴澤天神社まで行列するが、特に神社の石段を舞いながら登る姿は勇壮そのものである。
昭和十年代に一時中断したが、二十年代後半には復活し、その後獅子舞保存会を組織し、獅子舞の保存・伝承につとめている。(稲城市教育委員会掲示より)


穴澤天神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿