威光寺|新東京百景の弁天洞窟、多摩八十八ヶ所霊場
威光寺の概要
真言宗豊山派寺院の威光寺は、草香山小沢院と号します。威光寺の創建年代は不詳ですが、第二世惠範が寛永20年(1643)に示寂していることから1600年前後の創建と考えられます。延宝3年(1675)に穴澤天神社の別当寺となっていましたが、明治4年神仏分離の神仏分離に伴い、当寺境内に新たに弁天洞窟を設けて石仏を穴澤天神社より移設しました。この弁天洞窟は新東京百景の一つとなっています。多摩八十八ヶ所霊場7番、多摩川三十三ヶ所観音霊場27番です。
山号 | 草香山 |
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院号 | 小沢院 |
寺号 | 威光寺 |
本尊 | 大日如来坐像 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
住所 | 稲城市矢野口2411 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 多摩八十八ヶ所霊場7番 |
威光寺の縁起
威光寺の創建年代は不詳ですが、第二世惠範が寛永20年(1643)に示寂していることから1600年前後の創建と考えられます。延宝3年(1675)に穴澤天神社の別当寺となっていましたが、明治4年神仏分離の神仏分離に伴い、当寺境内に新たに弁天洞窟を設けて石仏を穴澤天神社より移設しました。この弁天洞窟は新東京百景の一つとなっています。
新編武蔵風土記稿による威光寺の縁起
(矢野口村穴澤天神社)別当威光寺
除地山二千百坪。字谷戸にあり。草厚山と号す。新義真言宗、坂浜村高勝寺末、開山の名傳へす。第二世惠範は寛永廿年四月寂せり。この比はいまだ別当寺とはならざりしが、もとより別に梅元坊と云別当ありしに、いかなる故か廃せしにより、威光寺かはりて別当寺となりしと云。これ延宝三年六月のことなり。本堂五間に七間南向なり。本尊大日木の坐像にして長は三尺ばかりなり。(新編武蔵風土記稿より)
稲城市掲示による威光寺の縁起
威光寺
草香山小沢院と号して、延宝3年(1675)より穴澤天神社の別当寺であり、真言宗豊山派で、坂浜の高勝寺の末寺である。本堂は江戸時代の中頃に焼失し、現在の建物は明治3年に改築されたものである。
境内にある庚申塔は、市指定文化財であり、市内で2番目に古い(貞享元年1684年)もので、六角の石幢形は、一般的な庚申塔とは異なる貴重なものである。軽打の一番奥には、新東京百景の一つに選ばれた弁天洞窟がある。この洞窟は、横穴式の古墳を基に掘広げられたもので、弁財天、大黒天等の仏を安置している。(稲城市掲示より)
威光寺所蔵の文化財
- 威光寺の庚申塔(稲城市指定文化財)
庚申塔(稲城市指定文化財)
六十日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の日になると講の人たちが集まって飲食を共にし、眠らずに夜を明かして健康、長寿を願う庚申信仰が江戸時代には広く農村で行われるようになった。こうした講の継続を記念して多くの人たちの協力によって造立されたのが庚申塔である。
この庚申塔は、貞享元年(1684)に現在地の近くの山頂に造立されたもので、造立者の藤原能成は、当時この地を支配していた旗本加藤太郎左衛門能成と思われる。こうした領主による造塔は、六角柱に笠をつけた石幢形の塔形とともに、ごく一般的な庚申塔とは異なる珍しい貴重な作例である。(稲城市教育委員会掲示より)
威光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿