妙見寺|妙見宮、多摩川三十三観音霊場
妙見寺の概要
天台宗寺院の妙見寺は、神王山観音院と号します。創建年代は不詳ですが、天平宝字4年(760)の創建とも天永3年(1112)の創建ともいい、妙見宮を残し、現在に至るまで神仏混淆の残る寺院です。多摩川三十三観音霊場30番です。
山号 | 神王山 |
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院号 | 観音院 |
寺号 | 妙見寺 |
本尊 | 阿弥陀如来坐像 |
宗派 | 天台宗 |
住所 | 稲城市百村1588 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 多摩川三十三観音霊場30番 公式ページ:妙見寺 |
妙見寺の縁起
妙見寺の創建年代は不詳ですが、天平宝字4年(760)の創建とも天永3年(1112)の創建ともいいます。
新編武蔵風土記稿による妙見寺の縁起
(百村)妙見寺
除地、凡五段、小名中谷にあり。神王山観音院と号す。天台宗、江戸東叡山の末寺なり。開山の来由を傳へず。本堂八間に六間半、北に向。本尊大日木の坐像にして長一尺五寸。
観音堂。本堂に向て左にあり。三間四方。十一面観音長一尺ばかり。木の坐像。(新編武蔵風土記稿より)
境内の妙見宮について
(百村)妙見社
除地、一町五段、村の南にあり。勧請の年代をしらず。社上に覆屋あり。二間に二間半西向なり。神体は霊験いとあらたにして、扉をひらくことをゆるさずと云。社前に鳥居をたつ。又石の燈籠あり。前に石階を設。
末社。稲荷社。那智山権現社。(新編武蔵風土記稿より)
妙見寺・妙見宮所蔵の文化財
- 稲城市百村の蛇より行事(東京都指定無形文化財)
- 妙見寺の筆塚(稲城市指定文化財)
稲城市百村の蛇より行事
この行事は寛文二年(1662)の春、諸国に疫病が流行した折に始められ、一時中断したことはあったが、以来疫病防止、降雨、五穀豊穣を祈願するため毎年欠さずに行われている。
毎年八月七日、北斗七星になぞらえた百村の旧村民(現在は「竪神社奉賛会」会員)の中から選ばれた七名が、萱場から萱を刈り出し、これを奉賛会の全員が集まって長さ50~100メートル程の大蛇の形に撚り上げる。その後、妙見宮の階段に沿って置き、頭を山下の二十三夜塔の前に、尾は山上の社殿を取り巻くように安置する。
蛇体の製作に併行して、妙見宮の別当妙見寺の僧侶によって読経が行われ、完成した大蛇は僧侶から開眼供養を受け、一連の行事は終わる。
本行事では素材が萱という異色の大蛇がつくられる。その長さは50メートル以上と巨大であり、その製作にあたって仏教儀礼が併行して行われるなど他には見られない特色を有している。希少的な価値を持つ極めて珍しい民俗行事の一つである。(東京都教育委員会掲示より)
妙見寺の筆塚
筆塚は書道の師や文筆家の功績をたたえて建てられる場合が多く、教育の記録として重要である。
この筆塚は文政六年(1823)に、文人であり書家でもあった百瀬雲元が、多くの門人たちの協力のもとに建てたものである。銘文によると、菅原道真を祭る石祀とともに、廃筆を埋めた筆塚を建立したことが記されている。
百瀬雲元は宝暦十三年に百村の名主榎本六左衛門の二男(冨八郎)として生まれ、後年江戸に出て百村冨之進と改名し御家人となった。そして書家の百瀬耕元に師事し、雲元と称して多くの門人を育てたといわれる。天保二年に隠居して故郷の百村に移り住んだ。
百村の人々からは筆塚様と呼ばれて崇められ、学業成就の信仰を集めた(稲城市教育委員会掲示より)
妙見寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿