八幡神社|国分寺村の鎮守
八幡神社の概要
八幡神社は、国分寺市西元町にある神社です。八幡神社の創建年代等は不詳ながら、元和年間(1615-23)の書に記載があり、江戸期には国分寺村の鎮守社だったといいます。明治4年村社に列格、昭和26年には本町八幡神社を分祀したといいます。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 祓戸神社、榛名神社 |
住所 | 国分寺市西元町1-13-23 |
祭日 | 9月18日 |
備考 | 国分寺村鎮守 |
八幡神社の由緒
八幡神社の創建年代等は不詳ながら、元和年間(1615-23)の書に記載があり、江戸期には国分寺村の鎮守社だったといいます。明治4年村社に列格、昭和26年には本町八幡神社を分祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による八幡神社の由緒
(国分寺村)八幡社
薬師堂山林の内にあり、二面に三面の覆屋あり、村内鎮守、國分寺持。(新編武蔵風土記稿より)
北多摩神社誌による八幡神社の由緒
縁起創建不詳。享保五年五月社殿新造。明治四年十月村社に列せられる。明治四十年一月二十八日本殿、覆殿、玉垣新築許可、明治四十一年十二月十日落成届出、昭和二十六年三月二十八日国分寺市国分寺二八六四番地に八幡神社を設立に際し祭神を分祀した。(北多摩神社誌より)
東京都神社名鑑による八幡神社の由緒
縁起創建不詳。享保五年(一七二〇)五月社殿新造。明治四十年十二月本殿・拝殿・覆殿・玉垣を改築竣功した。(東京都神社名鑑より)
「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」による八幡神社の由緒
八幡神社は国分寺薬師堂南西の国分寺崖線上に境内を構えます。境内は南面し、崖線下に階段及び鳥居を設け、崖上に狛犬、鳥居、東傍らに末社、参道突き当たりに拝殿、幣殿、本殿、本殿覆殿が建ち、その東側に氏子会館が置かれ、祭神は応神天皇とします。
八幡神社の由来は明らかでありませんが、幕末期の御用留には、既に元和(1615~23)年中、除地5反歩と記されています。明治12(1879)年の「神社明細帳」(東京都公文書館所蔵)では当時の社殿を享保5(1720)年に新造したとの伝承がありますが、後述のように現在の本殿は19世紀前期頃の建築と考えられます。また、明治41年に12月に本殿、拝殿を新築したとの記録が残りますが(『北多摩神社誌』)、拝殿、本殿覆殿は彫刻絵様が明治時代後期の傾向を示すことから、これは拝殿、本殿覆殿の新築を示すものと考えられます。また昭和38(1963)年4月に覆殿の改修があり、この際、幣殿の建築が行われました。(「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より)
八幡神社所蔵の文化財
- 土師竪穴住居跡(市指定史跡)
土師竪穴住居跡
昭和三十一年、日本考古学会仏教遺跡調査と区別委員会によって、初めて武蔵国分寺遺跡の本格的な発掘調査が行われました。
この時、僧寺の金堂・講堂跡とともに薬師堂の西側でも調査が行われ、僧寺の寺域を境す北辺・西辺の両遺跡と寺域の内外に同時代の竪穴住居跡が四棟発見されました。この中で、寺域内より発見された二号竪穴住居跡を史跡指定したものです。
この住居跡は、規模が四・〇メートルX四・二メートルのほぼ方形をしており、煮炊きを行った竃が北壁に二ヶ所、東壁に一ヶ所設けられていました。住居内部からは完形の土器八点、完形の塼など多数の遺物が出土しています。
名称の「土師」は、当時一般的に使用されていた土器の一種類である土師器を指しており、「土師器を使用していた時代の」という意味です。(国分寺市教育委員会掲示より)
八幡神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 北多摩神社誌(北多摩神道青年会むらさき会)
- 東京都神社名鑑
- 「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」