野津田神社|旧五社明神、明治期御霊神社
野津田神社の概要
野津田神社は、町田市野津田町にある神社です。野津田神社の創建年代等は不詳ながら、元禄13年(1700)に湯花神事が行われたいい、五社明神と称していたといいます。明治21年(1888)御霊神社と改称、明治42年(1909)には上ノ原の春日神社、本村の幸山神社、並木の伊勢神社、川嶋の御嶽神社を合併、野津田神社と改めたといいます。
社号 | 野津田神社 |
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祭神 | 伊邪那岐命、伊邪那美命、国常立尊、天照大神、天津児屋根命、日本武尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 町田市野津田町2319 |
祭日 | 8月27日 |
備考 | - |
野津田神社の由緒
野津田神社の創建年代等は不詳ながら、元禄13年(1700)に湯花神事が行われたいい、五社明神と称していたといいます。明治21年(1888)御霊神社と改称、明治42年(1909)には上ノ原の春日神社、本村の幸山神社、並木の伊勢神社、川嶋の御嶽神社を合併、野津田神社と改めたといいます。
新編武蔵風土記稿による野津田神社の由緒
(野津田村)
五社社
除地、陸田三段二畝二十八歩、字暖澤にありて暖澤及び田中の鎮守なり、村民持なり、社に覆屋を設く、二間に三間東向なり、前に鳥居を立、白幣を神體とす、祭神及び鎮座の年代詳ならず、例祭は年々九月十九日にあり。
神明社
除地陸田一段三畝、字並木にあり、その所の鎮守なり、勧請の年代をしらず、これも二間四方の覆屋あり、白幣を神體とす、例祭は上におなじ、華嚴院のもちなり。
御嶽社
除地、六畝四歩、字川島にあり、その地の鎮守にて村民持なり、鎮座の年代をしらず、社に覆屋あり、前に鳥居をたつ、石階三十二級あり、例祭は年々二月八日なり。
春日社
字綾部にあり、その地及小名松葉、袋等の鎮守なり、華嚴院の持にて、社地は則彼寺領の内なれば定れる坪数なし、社上に覆屋あり、二間半に三間半、南向なり、前に鳥居をたつ、例祭八月十日なり、勧請の年代知らず。
幸山社
字本村にあり、同所及び丸山の鎮守なり、勧請の年代及び祭神を詳にせず、神體は白幣なり、社上に二間四方の覆屋を設く、前に石階四十三級あり、例祭は九月十九日なり、これも華嚴院の持にて、社地もかの寺領の内なり、以上の五社例祭の日、年々かはるがはる神事を行ふ故、五年に一たびづつの祭事有。
稲荷社
除地、四畝、字暖澤にあり、腰掛稲荷と號す、鎮守の年代をしらず、小社にて覆屋あり、東向なり、前に鳥居をたつ、百姓儀右衛門持。
稲荷社
除地、陸田一段五畝、字本村にあり、小社にて覆屋あり、南向なり、華嚴院の持。
稲荷社
除地、陸田二段、これも本村にあり、小社なり、白幣を神體とす、神主を河井清太夫と云。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による野津田神社の由緒
創建の年代は不詳であるが、元禄十三年(一七〇〇)九月二十八日に湯花神事が行われたと村の年代記にある。享保二年(一七一七)三月には除地畑三反二十八歩があった。五社明神、また明治二十一年には御霊神社とも称した。明治四十二年春日社、幸山社、伊勢社、御嶽社を御霊神社に合併、社名を野津田神社とした。現社殿は大正十五年十月二日の造営である。(東京都神社名鑑より)
「町田市史」による野津田神社の由緒
野津田神社(野津田)
創立の年代は詳らかでない。元禄一三年(一七〇〇)九月二八日の祭礼の時、湯花の神事が行なわれたことが「野津田村年代記」(史料集五の一七頁以下)にあり、享保二年(一七一七)三月には五社明神と称していた。除地畑三反二畝二八歩があった。ほかには各谷戸に二〇か所ある。享保六年には一四か所、天保一四年(一八四三)八月には八か所である。
明治二一年(一八八八)には御霊神社と称して、明治四二年(一九〇九)には上ノ原の春日神社、本村の幸山神社、並木の伊勢神社、川嶋の御嶽神社の四社を暖沢の地の御霊神社へ合併して野津田神社と社名の変更をしたのである。現在の社殿は大正一五年(一九二六)一〇月三日の改築のものである。
祭神は伊邪那岐・伊邪那美命、国常立尊、天照大神、天津児屋根命、日本武尊命。例祭日は八月二七日である。
町田市野津田町二三一九番地に鎮座している。
境内坪数二反一畝二四歩。(「町田市史」より)
野津田神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑
- 町田市史