南大谷天神社|五十嵐次郎左衛門が大谷村の鎮守として創建、町田三天神
南大谷天神社の概要
南大谷天神社は、町田市南大谷にある神社です。南大谷天神社は、正保2年(1745)五十嵐次郎左衛門が大谷村の鎮守として創建、享保5年(1720)には神像を修飾したといい、本町田菅原神社、町田天満宮と共に町田三天神の一つです。境内には、別当寺であった南松寺の遺構の一つ観音堂が残されています。
社号 | 天神社 |
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祭神 | 菅原道真公、宇迦乃御魂命、大山咋命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社 |
住所 | 町田市南大谷451 |
祭日 | 9月25日 |
備考 | - |
南大谷天神社の由緒
南大谷天神社は、正保2年(1745)五十嵐次郎左衛門が大谷村の鎮守として創建、享保5年(1720)には神像を修飾したといいます。
新編武蔵風土記稿による南大谷天神社の由緒
(大谷村)
天神社
年貢地、八段程、村の中央にあり、社地松杉及び雑木しげれり、村内の鎮守なり、勧請の年代をしらず、末社に覆屋あり、三間に四間、拝殿二間半に二間、前に鳥居をたつ、共に南向なり、年々九月二十五日を例祭を定めり、南松寺持。
南松寺
天神社地へ入る所にあり、則社地のうちなり、普化宗、橘樹郡神奈川宿西向寺の末、本堂二間に五間、本尊阿彌陀を安置す、開山開基詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による南大谷天神社の由緒
正保二年(一六四五)二月二十五日、御神像を島山法春がつくり創建した。享保五年(一七二〇)二月二十五日に、伊勢守平正清の家人五十嵐伝兵衛敬孝ならびに大谷村の氏子が、大仏師康伝に依頼し神像を修飾した。文化七年(一八一〇)社殿再建し、現社殿は昭和三十九年四月十二日の造営である。町田三天神の一社である。(東京都神社名鑑より)
「町田市史」による南大谷天神社の由緒
天神社(南大谷)
正保二年(一六四五)八月に嶋山法春によりご神像を作ったのであり、そのころの創建と思われる。享保五年(一七二〇)二月二五日、願主の五十嵐伝兵衛敬孝が、ご神像を大仏師康伝により修飾したことが仕立書にある。社宝の神額は安永四年(一七七五)五月二五日正一位天神宮の金文字で、金龍山一月寺の長運観守の書である。文化七年(一八一〇)九月二五日、社殿を改築したのである。現在の社殿は、昭和三五年(一九六〇)九月二〇日新造のものである。
祭神は菅原道真公である。
町田三天神の一社でもある。
例祭日は毎年九月二五日である
境内坪数三反三畝二六歩、境外山林一町九反八畝歩余り。町田市内の神社のなかでは広大である。
町田市南大谷四五一番地に鎮座している。(「町田市史」より)
境内掲示による南大谷天神社の由緒
正保二年(一六四五)二月二十五日、五十嵐豊前守勝春の末男五十嵐次郎左衛門が大谷村の村長となり御神像を島山屋法春につくらせ天満宮を鎮守とし奉安したと伝えられております。享保五年(一七二〇)二月二十五日、地蔵の伊勢守平正清の家人(名主)であった五十嵐伝兵衛敬孝が村の代表として平正清とともに京都にゆき御神像を大仏師康伝に依頼し、修飾させております。文化七年(一八一〇年)九月二十五日社殿再建、現社殿は昭和三十七年十二月に起工し昭和三十九年四月十二日に竣工したものであります。本殿は流造、拝殿は入母屋造、町田三天神の一社で京都北野天満宮を本社とする。(境内掲示より)
南大谷天神社所蔵の文化財
- 天神社本殿一棟(町田市有形指定文化財)
天神社本殿一棟
天神社本殿は、間口一・五三メートル、奥行き一・二六メートルの本格的な一間社流造です。全体から細部に至るまで地方的な作風を示さず、中央の系統につながるものと考えられます。神像の胎内文書から、本殿の建立時期は十七世紀中ごろと推定され、蟇股の造り、彫刻なども十七世紀前半の技巧を示しています。(町田市教育委員会掲示より)
虚無僧寺南松寺跡地
虚無僧寺南松寺の由来
普化禅宗金先派南松寺は南大谷天神社の開創(一六四五)と同時期に開山悟心源了和尚・開基二代五十嵐伝兵衛采女正・境内寄進開基二代佐藤右により別当寺として創建され、場所は現社務所の南側にありました。
それ以来二百数十年にわたり天神社の別当管理などを行い、共に栄えて来ましたが明治四年太政官布告により廃宗廃寺となりました。
その後跡地は荒廃していましたが、昭和三十八年に宅地開発されるに当たり氏子一同の協力により歴代住職の墓碑が観音堂の裏に移転安置されました。また観音堂には本尊・歴代住職の位牌が奉安されており、その他にも本堂額・石仏・井戸などが残っております。これら虚無僧寺の遺物の現存は全国的に珍らしく町田市の貴重な歴史遺産であります。(境内掲示より)
南大谷天神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑
- 町田市史