鶏足山養運寺|武相卯歳観音霊場
養運寺の概要
浄土宗寺院の養運寺は、鶏足山と号します。養運寺の創建年代等は不詳ながら、文永年間(1264-1274)に天台宗寺院として創建したと伝えられます。永禄10年(1567)に誓誉重南が浄土宗寺院に改めて開山、江戸期には幕府より寺領3石の御朱印状を受領していました。また、当寺本尊阿弥陀三尊像は、町田市有形文化財に指定されています。武相卯歳観音霊場5番です。
山号 | 鶏足山 |
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院号 | |
寺号 | 養運寺 |
住所 | 町田市本町田3654 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
養運寺の縁起
養運寺の創建年代等は不詳ながら、文永年間(1264-1274)に天台宗寺院として創建したと伝えられます。永禄10年(1567)に誓誉重南が浄土宗寺院に改めて開山、江戸期には幕府より寺領3石の御朱印状を受領していました。
新編武蔵風土記稿による養運寺の縁起
(本町田村)養運寺
字宿にあり、寺領三石の御朱印を賜はる、浄土宗、瀧山極楽寺の末寺なり、慶足山と號す、本堂八間四方南向なり、本尊は三尊の彌陀、中央の像一尺五寸、脇士二體各九寸ばかり、三軀ともに木にて作れる坐像なり、又観音の像あり、これはもと當村と大谷村との堺に堂ありて、かしこに安置せしが、一旦回禄にあひて再造に及ばず、しばらくこの堂中に移しおけりと云、開山傳譽寂年をつたへず。
清林庵。境内南の方にあり、六間に三間、ここにも三尊の彌陀を本尊とす、長九寸ばかり(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による養運寺の縁起
養運寺(本町田)
所在地 町田市本町田字宿。
宗派 浄土宗。滝山極楽寺末。
山寺号 鶏足山養運寺。『風土記稿』には養雲寺とあるが、養雲寺と書いた時もあったのだろうか。
開山 文永年間(一二六四~七四)と伝うるだけで明らかでないが、過去帳には永禄一〇年(一五六七)二月浄土宗として、誓誉重南を初代とし、現在の田中貫成師まで五四代である。推定されるには、浄土宗に改宗以前は天台宗であったようで、それを加えて、『風土記稿』は文永年間創草としたのであろうか。
朱印 寺領三石。
本尊 弥陀。座像(一尺八寸)。東京都多摩丘陵文化財調査の際、江戸期のものとし、「それらのうちでは佳作」と記している。
本堂 文政六年(一八二三)二月落慶。棟札に「白川神祇伯王殿門人河原左京藤原繁次棟梁」とある。そのおりには六間四面であったが、現在では正面七間半に改装されている。阿弥陀堂式寄棟、木造、亜鉛葺。○客殿庫裡 昭和四七年一二月竣工、一一九坪、木造平家瓦葺、別に昭和四二年四月建築の客間。一〇畳二室がある。
観音堂 四間四国木造平家。昭和二年(一九二七)建立。正観音座像一尺一寸。一尺六寸の蓮台あり。
鐘楼 九尺四方総欅造り、瓦葺。天井、院展審査員小松均画伯筆の牡丹と蓮の花丸あり。梵鐘、徳富蘇峰筆銘、警醒濁世煩悩心、振起人天偕和心の二行を刻み、「蘇峰の鐘」と命名した。この鐘重量七〇〇キログラム、口径二尺七寸五分、高四尺五寸、鎌倉形。昭和三二年(一九五七)四月越中高岡老子治右衛門鋳造。
総門 四間半、白木造り。昭和四五年建。裏門、万延元年(一八六〇)一〇月建、冠木門(もと総門を移築)。寺域面積一〇八〇坪(明治三年調べによる)。
清林庵 弥陀三尊を別に祀った六間に三間の別院があったことを『風土記稿』には記すが今はない。(「町田市史」より)
養運寺所蔵の文化財
- 養運寺 阿弥陀三尊像(町田市指定有形文化財)
新編武蔵風土記稿による養運寺の縁起
養運寺の本尊像。中尊像は定印の阿弥陀如来坐像で、両脇侍像は来迎形の三尊である。いずれも寄木造、漆箔、玉眼嵌入の技法になる。中尊像は全体の均斉がよくとれ、眦の吊り上がった表情や形式的に整理された太めの衣文の表情などに室町時代の彫刻形式が看守される。両脇侍像は中尊像に比べ表情が厳しくなり、衣文の表情も癖が強く、ほぼ同時期の制作と認められるものの、本来一具の作品とはいい難く、後世に一組とされたと考えられる。なお、本寺の過去帳によれば永禄10年(1567)に浄土宗になったといい、この像もその頃に制作されたものと推測される。(町田市教育委員会掲示より)
養運寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」