寶樹山極楽寺|八王子を代表する寺院の一寺
極楽寺の概要
浄土宗寺院の極楽寺は、寶樹山と号します。極楽寺は、呈蓮社鎮譽愚耕即也上人(弘治2年1556年寂)が、瀧山城下の丹木(極楽寺谷)に草庵を構えて永正元年(1504)に創建、滝山城主大石定重(或は一色氏)が上人の高名を聞き堂宇を建立して提供したといいます。第三世文譽上人の代に元八王子城下梶原谷へ移転、第五世乗誉琳山の代に八王子城が落城、天正18年(1590)当地へ移転したといいます。徳川家康が関東に入国した後、領主となった大久保長安は、乗誉琳山に篤く帰依し伽藍を再興、八王子市を代表する名刹寺院の一寺で、境内の長田作左衛門墓・塩野適斎墓・玉田院墓は東京都旧跡に指定されています。
山号 | 寶樹山 |
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院号 | - |
寺号 | 極楽寺 |
住所 | 八王子市大横町7-1 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
極楽寺の縁起
極楽寺は、呈蓮社鎮譽愚耕即也上人(弘治2年1556年寂)が、瀧山城下の丹木(極楽寺谷)に草庵を構えて永正元年(1504)に創建、滝山城主大石定重(或は一色氏)が上人の高名を聞き堂宇を建立して提供したといいます。第三世文譽上人の代に元八王子城下梶原谷へ移転、第五世乗誉琳山の代に八王子城が落城、天正18年(1590)当地へ移転したといいます。徳川家康が関東に入国した後、領主となった大久保長安は、乗誉琳山に篤く帰依し伽藍を再興、八王子市を代表する名刹寺院の一寺で、境内の長田作左衛門墓・塩野適斎墓・玉田院墓は東京都旧跡に指定されています。
新編武蔵風土記稿による極楽寺の縁起
(子安宿)
極楽寺
境内、六千百四十八坪、大善寺の向ひなり、寺地の遷移は大善寺と同じ、これも瀧山極楽寺と稱せり、浄土宗、京知恩院の末寺なれども、その地の遠きを以て今大善寺の支配をうく、寶樹山と號す、寺傳云、瀧山城主(名闕)永正元年に起立して、僧鎮譽を開山とす、鎮譽は弘治三年正月五日寂せりと云、或は云、開基一色某也と、此人天正の比瀧山城主なりしにや、若し然らば一色居城の後一旦廃城となりしを、後に大石信濃守が再興せしなるか、今當寺に来由記といふものを蔵せり、その文をつまみ採て左に記せり。
抑武蔵國多磨郡横山郷、寶樹山極楽寺濫觴者、人王百五代
後柏原院御宇、永正元年呈蓮社鎮譽愚耕即也上人之草創也焉、鎮公素勢州之人、未詳氏族、遂飛錫屡巡觀數州、而至于當郡瀧山、因構草庵、専弘通念佛一門、廣度群生、而永正十五秋于總州(豊田郡飯沼郷)弘經寺謁一譽宗悦和尚、宗公欣然曰、聞徳風佇来儀子當發揮吾道、終三國曩祖法水傾瓶傳於爰瀧山城主(或人云一式氏)聞師之俊才、新建一宇精舎、(瀧山郷丹木村、俗呼極楽寺谷、)住持鎮師張法幢設講席、近隣群集、曾
後奈良院御宇、令参内賜紫衣、此時華頂山徳譽上人直筆以額附鎮師、號極楽寺是也、于時壽龜山主(弘經寺)避山払附鎮、固辭再三顧命不許、鎮諾住、而依三州岡崎城主廣忠公之請、入大樹寺褰法燈、而檀主廣忠公天文十八年己酉三月六日薨、以師爲燒香、法名瑞雲院應政道幹大居士、而師及脱年意有遁、遂辭衆結茅舎(今在愚耕院)而弘治二丙辰正月五日向西逝矣、永禄三年五月
元康公(後改家康公)軍不利、一族敗走、殘兵僅十八人、力盡莫某、仍入大樹寺欲死之、住持僧云、公勿死、我雖沙門、卿以妙計計敵退、野外勝得掌内、施餓鬼大旗寺内掛大樹、其兵策頗如宿将、其旗文云、厭離穢土欣求浄土、則是鎮公之筆也、(中略)而第三世文譽上人之時、城主由井源三與文譽結交同膝、其比天下大亂爾、此城地號瀧山甚凶也、夫瀧落必矣抱城、元八王子城主引極楽寺遷城下、(中略)第五世乗譽琳山上人、玉山院燒香導師也、當八王子縣令大久保石見守從来在檀契、歸依不淺、終招乗公建當八王子横山郷、再興伽藍、崇敬異他年矣、山門鐘樓、皷樓、五百羅漢堂闊龍首魚形琢甍連軒、自爾法流連綿無斷絶、而承應三年火災起、堂上佛閣成灰燼、其後寛文八年再罹池魚殃、諸宇悉回禄也云々(下略)
佛殿
九間四面、向拝に一間半、銅葺なり、本尊彌陀は安阿彌の作なりと云、俗に歯吹尊と稱す、縁起の略に云、本尊彌陀は立像にして、長三尺、當山へ安置の来由を尋ぬるに、中古元八王子の内御靈谷妙觀寺と云寺の本尊なりしが、宥光と云僧かの寺に住せし頃、夢の告によりて當寺の開山鎮譽へ附與せしと云、其像異相にして、唇開き歯白く見ゆるゆへ、歯吹佛とよべり、又鼻取の如来と云ことは、昔少しの免田ありしを、百姓怠りて耕ざりし時、小僧に現して馬の鼻を取たがやせし故なりと云、又北條氏照及び大久保長安の位牌を安す、遥の後承應三年十月廿日の夜、回禄のときさしも結構して美をつくし、金堂と呼ばれし本堂も皆烏有して、寶物以下もこのとき亡びしに、誰持去しともなく、この像境内の西北の藪の内にありて災をのがれしと云、
寺寶。
東照宮御軍扇半面。掛物とせり、御扇面は金地なり、御眞筆なりと云、其文左に出す、(文面省略)これは開山鎮譽三州額田郡大樹寺より、當寺へ移りしとき持来りしならんと云り、
金蘭戸帳。御紋を織出せり、浄岸院殿御寄附の品なりと云、
表門。大さ九尺に六尺
鐘樓。一間四方、鐘の徑二尺三寸ほど慶安四年九月廿五日第七世傳譽が造る所なり、刻字もあれど甚短文にして、事實に及ばざれば略せり、
稲荷社。一間四方、境内の鎮守也、
仁科信盛女小督墓。石塔建り、この墓もとは玉田寺の舊蹟にありしを正徳五年七月仁科資眞こゝに改葬せりと云、この小督は新館尼の姪女なり、天正十年武田滅亡のとき、信盛戰死の後尼と共に、當所案下山にのがれ住しが、薙染の志ありて、桑門辨阿彌に就て浄教を奉ぜり、よりて形勝の地を得たきよしを、大久保石見守に告しかば、横山村の内にて其地をあたへしにより、こゝに棲遅して浄業を専とせり、慶長十三年戊申七月廿九日病にかゝり、西に向ひ彌陀を唱へて寂せり、時に年二十九、かねて尋討の師なれば、乗譽琳山和尚導師として、玉田院光譽容室貞舜尼とをくりなせり、
古松。これを土人大久保塚とよぶ、境内東の方にあり、相傳ふ大久保石見守が子御成敗のとき、當時の檀越なればかの屍をこゝへ埋みしと云、又云、左にはあらず、石見守が子東十郎と云ものこの所へ来りて自害せしを、埋みしなりと、
裏門。六尺に五尺、(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による極楽寺の縁起
極楽寺(滝山―大横町四八)
八王子市内寺院といえば人々は直ちに「大善寺・極楽寺」と最初に指を屈するほど、有名な相対立する古刹である。しかし維新前極楽寺は大善寺の下位にあり、特に元禄村鑑その他の記録では明らかに大善寺支配下の極楽寺となっている。かように微妙な関係の一事がひいては八日・横山両宿の対立となり、時の鐘寄進の紛争問題となり、「横山根元記」となり、大久保対長田問題となり、新野・川口両家対立におよんで八王子・横山両町名の争いとなり、まことににぎにぎしく発展してきたものである。当寺は大本山増上寺に属す。その創立ははじめ滝山城下であったことは新編武蔵風土記稿の本丹木の項に「極楽寺谷、村の南にあり、古へ今の滝山極楽寺ありし跡なりと云事云々」とあるので明らかであり、さらに同書の元八王子村の項には「大善・極楽二寺跡、これも八幡森の東なり云々」とあるので滝山から元八王子に移り、さらに現地に移ったことは明らかである。山号宝樹山、本尊阿弥陀仏(安阿弥の作)は俗に「歯吹尊」と称する。滝山城主大石定重(或は一色氏)の開基ともいう。永正元年(一五〇四)の創立、開山鎮誉(弘治二年 一五五六 正月五日示寂)である。ついで滝山から元八王子城下梶原谷に移って再建、当寺第三世文誉の代である。文誉は城主北条氏照とも親交があった。天正一八年(一五九〇)八王子城落城後現地に移った。当寺第五世乗誉琳山の代である。乗誉は当時の八王子領主大久保長安から相当の帰依を受けていたので、その移転再建には長安から熱心な援助を与えられたものである。当寺境内は昔は六、一四八坪と称されたが、最近表門方面が道路拡張によって減地したけれども、なお、多くの大樹がうっそうとしげり、門境すこぶる森厳である。現在本堂は享保一三年(一七二八)の再建、庫裡は多摩村蓮光寺から旧家の建物を移築したものである。当寺墓地には仁科信盛女小督をはじめ、「開市の祖」といわれる長田作左衛門・塩野鶏沢・塩野適斉・歌川国直など名家の墓がある。最近学者間に当寺といずれも関係のふかい大久保長安対長田作左衛門の問題から、新編武蔵風土記稿中八王子起原に関する記事と「横山根元記」の内容などについて多くの論争が続けられている。ともかく当寺は郷土史学上からもすこぶる重要な史蹟である。(「八王子市史」より)
極楽寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来立像(歯吹尊)(八王子市指定有形文化財)
- 長田作左衛門墓(東京都指定旧跡)
- 塩野適斎墓(東京都指定旧跡)
- 玉田院墓(東京都指定旧跡)
木造阿弥陀如来立像(歯吹尊)
極楽寺の本尊であるこの仏像は、鎌倉末から室町時代にかけての「安阿弥」の作と伝えられる寄木造りの仏像である。秘仏とされているため普通は見ることはできない。
歯吹尊(如来)または鼻取如来といわれるが、歯吹尊のいわれは「異相にして、唇開き歯白く見ゆるゆえ」と伝えられ、見る人の心で忿怒の相とも笑顔の相にも見えるという。
鼻取如来は、その昔(八王子城下にあった頃)寺男が怠けているので、この如来が小僧に身を変じて現れ、馬の鼻先を取って水田を耕作したとの伝説によるものである。(八王子市教育委員会掲示より)
長田作左衛門墓
長田作左衛門は、はじめ北条氏照の家臣であったといわれています。八王子城落城後は前田利家に従ったと伝えられています。その後作左衛門は、八王子城の東方、横山の地に横山宿をつくり市場を発展させました。これは今日の八王子市の発展の基礎となったといわれています。元和三年(一六一七)に亡くなったと伝えられています。
現在残っている供養塔は、天保年間初期に長田氏の子孫である川邊、金丸及び飯島の各氏が願主となり、嘉永年間に建立されたものと言われています。右手にある塚も、昭和六三年の確認調査の結果、同時期に建設されたものと推測されています。(東京都教育委員会掲示より)
塩野適斎墓
適斎は千人同心の一人であったが、享和年間(一八〇一~〇四)幕命により蝦夷地(今の北海道)の経営に従った。のち、原胤敦や植田孟緒(ともに墓地は八王子市内にある)らとともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に従い、また相模風土記稿の編纂にも従事している。これらのほかに「桑都日記」「築井県行記」「日光客申漫筆」「支敲」など多くの著書がある。
諱は轍、字は子明、通称を所左衛門、適斎のほか笛水とも号している。弘化四年(一八四七)十一月十六日、七三歳で歿した。(東京都教育委員会掲示より)
玉田院墓
玉田院は俗名を小督といい、武田信玄(晴信)の五男、仁科五郎盛信の娘です。天正七年(一五七九)に盛信の居城である高遠城で生まれたと推測されます。天正十年(一五八二)、織田軍による甲州攻めの戦禍を避けるため、叔母である松姫とともに高遠城から八王子へと逃れ、この地で暮らしました。後に、関東の代官頭となり八王子に陣屋を構えた武田氏の遺臣、大久保長安の庇護を受け、寺を寄贈されます。まもなく小督は出家し生弐尼となりますが、病を得て、慶長十三年(一六〇八)に二九歳で没しました。その後、寺は小督の戒名にである「玉田院光誉容室貞舜尼」にちなんで「玉田院」と呼ばれるようになりました。
当初、墓は玉田院にありましたが、元禄年間に廃寺となり荒れ果てていたのを、仁科家の子孫である仁科資真が正徳五年(一七一五)に極楽寺へと改葬しました。(東京都教育委員会掲示より)
極楽寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」