小野山萬松寺|江戸幕府より寺領7石の御朱印状
萬松寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の萬松寺は、小野山と号します。萬松寺は、覺翁等公が開基となり元徳2年(1330)に創建、滅宗宗興大和尚(圓光大照禅師、永徳2年1383年寂)が開山、慶安元年(1648)には徳川家光より寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 小野山 |
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院号 | - |
寺号 | 萬松寺 |
住所 | 町田市小野路町344 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
萬松寺の縁起
萬松寺は、覺翁等公が開基となり元徳2年(1330)に創建、滅宗宗興大和尚(圓光大照禅師、永徳2年1383年寂)が開山、慶安元年(1648)には徳川家光より寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。滅宗宗興大和尚は、後に圓光大照禅師と勅諡された名僧で、数多くの寺院を建立したといいます。
新編武蔵風土記稿による萬松寺の縁起
(小野路村)萬松寺
村の西にあり、小野山と號す、臨済宗、芝崎村普済寺の末寺なり、寺領七石の御朱印を賜へり、開山宗興永徳二年七月十一日寂す、圓光大照禅師と勅謚せり、開基を覺翁等公と號す、寺僧の傳に等公は仙衛を得し奇特の人なり、境内西の方湧出する水はかの舊跡なるを以、仙水と名くなどいへり、されどもさせる證跡もあらざればおぼつかなし、本堂八間半に六間、南向なり、本尊薬師木の立像、長一尺五寸ばかり。
鐘楼。本堂の西南にあり、鐘に天明年中の銘を彫る。 (新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による萬松寺の縁起
万松寺(小野路町)
所在地 町田市小野路町万松寺谷戸三四四。
宗派 臨済宗建長寺派。もと鎌倉寿福寺末寺。
山寺号 小野山万松寺。開基 覚翁等公。
開山 僧宗興、永徳二年(一三八二)七月一一日示寂。覚翁等公は仙術を会得した奇特の人とある。また、宗興は円光大照禅師。
朱印 七石。○本尊 薬師、木立像、長一尺五寸。
本堂八間半に六間のものがあったが、太平洋戦争時米軍焼夷弾の爆撃で焼失。現在は仮本堂で四間に三間半。入母屋亜鉛葺。
庫裡 九間半に三間平屋木造瓦葺。○土蔵 二間に三間。
山門 冠木門。正九尺、奥行一間。扉あり亜鉛葺屋根。左右二間半ずつの袖垣あり。(「町田市史」より)
境内掲示による萬松寺の縁起
開山様は第五十二代嵯峨天皇第十二皇子源融の後胤にあたる中島蔵人の子息である。幼にして薙髪、鎌倉建長寺にて修行、一旦帰省し、父母への報恩のため妙興寺創建に着工、後に再び関東に遊歴して八禅刹を建立、当山はその中の一寺である。
父中島蔵人は尾州中島村(愛知県一ノ宮市萩原町中島)にある中島城の城主を勤めていた。
開山滅宗宗興和尚はよく衆生を済度し民衆のため種々尽力された高僧である。永徳二年(一三八三年)七月十一日示寂、七十三歳。示寂後四十余年を経て第百一代稱光天皇より(應永三十三年)(一四二六年)圓光大照禅師号を追贈されている。
当山萬松寺は徳川時代慶安元年(一六四八年)将軍家光公依頼代々御朱印七石を賜わる。徳川寛文年間第十一世祥翁喜和尚のとき全勝。降って昭和二十年(一九四五年)五月廿五日夜半今次大戦にあたり米國機の東京空襲の際焼夷弾攻撃を受け本堂玄関附属建物および過去帳仏具仏典類すべて焼亡、当時集団疎開していた品川区鈴ヶ森國民学校児童職員ら無事全員隣寺に避難した。(境内掲示より)
萬松寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」