河上山福寿院|山下市右衛門が開基、旧小机領三十三所子歳観音霊場、武相寅歳薬師如来霊場
福寿院の概要
高野山真言宗寺院の福寿院は、河上山と号します。福寿院は、山下市右衛門が開基となり、朝賢(元禄2年1689年寂)を開山として寛文11年(1671)に創建したといいます。旧小机領三十三所子歳観音霊場24番、武相寅歳薬師如来霊場24番です。
山号 | 河上山 |
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院号 | 福寿院 |
寺号 | - |
住所 | 町田市つくし野3-3-5 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
福寿院の縁起
福寿院は、山下市右衛門が開基となり、朝賢(元禄2年1689年寂)を開山として寛文11年(1671)に創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による福寿院の縁起
(小川村)福壽院
境内一段八畝、村の中央より少しく南へよりてあり、古義真言宗、都筑郡恩田村徳恩寺末、河上山と號す、三石三斗五升七合の除地を領す、開山朝賢元禄二年六月十日寂す、本堂六間に五間西向なり、本尊不動は木の立像にして長一尺二寸許、作しれず。
鐘楼。本堂に向て左にあり、二間四方、鐘銘の末に寶暦十三年とあり。
寶篋塔。これも同に向て左にあり。
観音堂。これも同邊にあり、三間に四間半南向なり、十一面観音を安ず、木の立像にして長二尺、厨子に納む、前立の像長八寸ばかりの坐像なり、堂の前に石階四十二級あり。
子ノ神社。これも本堂に向ひて左の方山上にあり、小社。
三寶荒神社。同ならびにあり、小社なり。この二社を合せて覆屋を設く、正面に石階二十九級あり。
稲荷社。子の神祠に向て左にあり、小社。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による福寿院の縁起
福寿院(つくし野)
所在地 町田市つくし野。
宗派 真言宗。高野派。都筑郡恩田村徳恩寺末。
山寺号 河上山福寿院
開基 山下市右衛門。寛文一一年(一六七一)所有地五畝を時の寺領主高木伊勢守守久より、検地の際除地の許可を得て小寺を創立した。
開山 朝賢。元禄二年(一六八九)六月一〇日寂。
除地三石三斗五升七合。ただし、天保一四年(一八四三)六月の「村差出明細書上帳」にも、高三石三斗五升七合壱勺五才、徳恩寺末、真言宗河上山福寿院、留守居壱人、本堂壱ケ所、但五間半、六間半、但本尊不動明王(『風土記稿』には新義真言宗とあり)とあって、江戸時代中期なるを明らかにしている。
本堂 間口七間、奥行六間半。木造亜鉛葺、入母屋造。この本堂は、天保一四年以後に建てかえたものと推定される。本尊 不動、木立像、長一尺二寸。
境内 一反八畝。
庫裡 昭和三三年九月二六日夜の台風のため倒壊し、再建した。三三坪の建坪、平屋瓦葺。
観音堂 この寺には、別に観音堂が付属しており、もとは隣地にあった別寺であったかも知れない。ということは、福寿院本堂正面にも三六段の石階があり、また観音堂にも四四段の石階があり、かつ、福寿院および観音両境内敷地の高低も異なっている。あるいは、小机領三十三観音霊場中の、この観音が第二十四番札所とされているから、本院よりは古く、室町時代より存在したのではないかとも推定されるのだが明確でない。堂は二間四方寄棟造り。本堂は『武蔵風土記稿』に「三間に四間半南向なり」としてあり、また天保一四年六月村明細帳には三間二尺と四間としてあるが、あるいは現在のように後世建て替えられたものであろうか。そして、同書に「十一面観音を安ず。木の立像にして二尺。厨子に納む」とあるのが本尊であろう。
鐘楼 二間四方。戦前には宝暦一三年(一七六三)の梵鐘があったが、太平洋戦に供出して、現在では新鋳の鐘がさがっている。鐘銘には五大願「衆生無辺誓願度、法門無辺誓願集、福智無辺誓願学、如来無誓願事、菩薩無上誓願証」の五行が彫られ、銈に南無七面観世音菩薩と刻し、昭和二八年四月一八日一三世矢口竜応代と鋳している。境内に、岩舟地蔵堂(享保四年六月建)がある。(「町田市史」より)
福寿院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」