大盛寺|井の頭弁財天の寺、武蔵野七福神
大盛寺の概要
天台宗寺院の大盛寺は、用静山と号します。大盛寺の創建年代は不詳ですが、僧辨泉が開山したといいます。当寺の井の頭弁財天は、武蔵野七福神の一つとなっています。
山号 | 用静山 |
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院号 | - |
寺号 | 大盛寺 |
宗派 | 天台宗 |
住所 | 三鷹市井の頭4-26-1 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 井の頭弁財天の別当寺 |
大盛寺の縁起
大盛寺の創建年代は不詳ですが、僧辨泉が開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による大盛寺の縁起
(無禮村)大盛寺
境内除地二段五畝六歩、小名山家にあり、天台宗、深大寺村深大寺末、用静山と號す、客殿七間半に五間半、本尊薬師木の立像、長一尺五寸許なるを安す、開山辨泉寂年を傳へず、當寺に櫻の老木一株あり、太田道灌おしみの櫻と云傳へり、其故を詳にせず、
観音堂
客殿に向て左の方にあり、正観音は木の立像長二尺五寸許り。(新編武蔵風土記稿より)
「三鷹市史」による大盛寺の縁起
大盛寺 明静山
深大寺末。開山は弁泉と伝えられているが年代は不明。(新編武蔵風土記稿)もと井の頭弁財天の番守であって、明浄坊または大清亡といっており延宝八年(一六八〇)に現在の山寺号となった。また明暦二年(一六五六)に向原の地に移り、その後に池畔の現在地へ戻った。明治二年に火災にかかった。(高梁家-地誌書上)
弁才天=池中の小島にある弁才天は縁起によると、天慶年中(九三八-九四六)源経基が伝教大師作の天女像を祀ったことにはじまる。古く源氏の諸将、鎌倉時代の新田義貞、近世にはいって徳川家康、家光などの事跡が伝えられ、神田上水の水源として江戸町民の信仰対象となり行楽の地ともなった。寛永一三年(一六三六)家光の命によって建立された社殿は大正一二年関東震災に大破し、翌一三年火災のため焼失した。現在の社殿は昭和二年に再建したもの。大盛寺に属している。(「三鷹市史」より)
大盛寺所蔵の文化財
- 延享2年(1745年)建立の道しるべ
大盛寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「三鷹市史」
- 東京都の歴史散歩(山川出版社)