瑞龍山海禅寺|寛正年間創建、七世天江東岳関州徳光禅師
海禅寺の概要
曹洞宗寺院の海禅寺は、瑞龍山と号します。海禅寺は、寛正年間(1460-1465)に益芝永謙が長勝庵と号する草庵として創始、その師雙林寺二世一州正伊が開山となり長勝山福禅寺と称したといいます。当地に生まれた五世太古禅梁の頃に三田氏の菩提寺となったといい、七世天江東岳は天正3年(1575)正親町天皇より当寺を勅願所とする論旨を拝領、天正13年(1585)には関州徳光禅師の称号を賜わるなど、寺勢ふるい数多くの末寺を擁していたといいます。徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には寺領15石の御朱印状を拝領、御朱印状の書き誤りにより寺号を海禅寺としたといいます。
山号 | 瑞龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 海禅寺 |
住所 | 青梅市二俣尾4-962 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
海禅寺の縁起
海禅寺は、寛正年間(1460-1465)に益芝永謙が長勝庵と号する草庵として創始、その師雙林寺二世一州正伊が開山となり長勝山福禅寺と称したといいます。当地に生まれた五世太古禅梁の頃に三田氏の菩提寺となったといい、七世天江東岳は天正3年(1575)正親町天皇より当寺を勅願所とする論旨を拝領、天正13年(1585)には関州徳光禅師の称号を賜わるなど、寺勢ふるい数多くの末寺を擁していたといいます。徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には寺領15石の御朱印状を拝領、御朱印状の書き誤りにより寺号を海禅寺としたといいます。
新編武蔵風土記稿による海禅寺の縁起
(二俣尾村)海禅寺
村の中程にて南寄にあり、瑞龍山と號す、禅宗曹洞派にて上野國白井雙林寺の末なり、天正十九年寺領十五石を賜ふ、御朱印御文面に海禅寺と書し賜りしに依て、今の寺號に改め、山號も又此時より是も今の山號に改しと云、末寺四十二寺あり、開山を一州正伊と云、周防國熊毛郡の人稲田氏なり、十三歳にして薙髪し、長享元年十一月四日示寂す、本寺第二世の僧なり、當寺第二世益芝永謙と云、明應六年三月十八日寂す、寺傳に云寛正年中僧益芝當所に来り、小院を營み號を長勝といひ、おのが師一州を以て開山とし、自ら其二世に居れり、久からずして退隠せしかば、明應元年其弟子なる者、師の遺跡を慕ひ、又當所に来り堂宇を建立し、師の號をとりて山號とし寺を海禅と云、五世太古の時に至りて、當所の城主三田弾正少弼綱秀住僧とはかり、當寺を再興せり、然に永禄六年三田氏落去せしかば、遂に兵火にかかりて諸堂ことごとく焼失せしを、天正十七年第七世天江東岳はさきに徳光禅師の號を賜ひし人にて、此僧の時に至りて諸堂悉く修造せしが、其後又回禄に罹り、今又諸堂建り、當寺は綱秀が中興せしなれば、其壘祖平将門の位牌を置り、是は将門が家臣野口氏の末孫刑部少輔秀房が納むる所なり、表に将門平親王朝臣三田代々尊靈とありて、裏に其をさめし謂れを書せり、させる考證ともならず、ことに寛永四年に納めしものにて、古きことにもあらざれば其全文を略せり。猶青梅村金剛寺の條下を合せ見るべし、又開基綱秀が位牌あり、福禅寺殿前霜臺又高山浄源庵主、三田弾正少弼平綱秀永禄六年癸亥十月十三日とありて、過去帳に妻及び子孫の法謚あり、青龍院殿玉安妙峯大姉、綱秀内室、永禄三庚申年八月六日、長善院殿貴山道富居士、嫡子三田重五郎、永禄六癸亥年十二月廿四日、仁叟院殿儀山道廓居士、次男三田喜蔵、永禄七甲子年八月廿六日、法性院殿明岑道三居士、三男三田五郎太郎、豆州而生害、元亀三壬申年三月十一日としるせり、又天正三年勅願所及び徳光禅師昇殿勅許の綸旨二通を蔵す、則左にのす。
當寺事、爲 勅願所、宜専佛法之紹隆、奉納 聖蓮之長久者。
天気如此、悉之以状 天正三年六月廿三日
(綸旨以下省略)
第十五世保禅の時、寶永五年正月十六日随意會會下號免許あり、本尊は釋迦の坐像にて長一尺五寸、脇士もぬ、普賢、作しれず、客殿十三間に九間廻廊あり、十五間と十三間なり。
門。一丈に九尺五寸、山門の前にあり。
鐘楼。門を入て右の方にあり、一丈四方、鐘の径二尺三寸、貞享年中鑄造せしなり。
禅堂。山門を入て左の方にあり、五間に四間七尺。
山門。三間四方、横一丈五尺、本堂の正面にあり。
開山堂。本堂の後にあり、二間半に三間半、土蔵なり。(新編武蔵風土記稿より)
「青梅市史」による海禅寺の縁起
海禅寺(瑞竜山)
二俣尾(現・二俣尾四丁目)にあり、本尊は釈迦如来。群馬県白井(現・渋川市) 雙林寺末である。はじめ長勝山福禅寺と号し、 雙林寺二世一州正伊を開山とする。寛正年中(一四六〇~六五)益芝永謙という僧がこの地に草庵を営み、自分の師正伊を開山とし、自らは二世となったと伝える。永謙は世田ケ谷に末寺常徳院を開創した。五世太古禅梁は市内下村の生まれ、武井氏の出で学徳高く、領主三田綱秀の信望が厚かった。このころ海禅寺は三田氏の菩提寺となった。禅梁は目黒区衾町に末寺東岡寺を興した。
七世天江東岳は秩父の人で、若いうち京都・高倉宗泉寺に住し、堂上の公卿方とも親しかったという。天正三年(一五七五)正親町天皇より海禅寺を勅願所とする旨の論旨を賜わり、天正十三年には東岳に関州徳光禅師の称号を賜わる勅書がくだされた。この二通の古文書は市有形文化財である。禅師は慶長十八年(一六一三)七月二十七日示寂。禅師によって再興され、あるいは開創された寺が三多摩および甲州路で五十七か寺あったと伝えられ、中でも府中市の高安寺は名刹である。市内にも五か寺を開創している。
天正十九年、徳川家康から寺領十五石の朱印状を寄せられたが、この時宛名が書き誤られ、以後、瑞竜山海禅寺と改号することになった。江戸時代再び火災にかかり、十四世石峰道穏により元禄十一年(一六九八)に本堂が再建され、寛政年間(一七八九~一八〇〇)山門、文政年間(一八一八〜二九)禅堂が建立された。昭和五十九年十月三十日再び出火。昭和六十二年から平成四年にわたり、本堂および庫裡が再建された。鐘楼には貞享四年(一六八七)の銅鐘があったが、太平洋戦争中供出し、今は新鋳の鐘となっている。寛永四年(一六二七)三田氏最後の家臣野口刑部丞秀房が納めた三田氏累代の位牌があり、市有形文化財に指定されていたが、昭和五十九年、火災のため焼失した。境内全域は都史跡に、また左手の山際にある三田一族の墓は都の旧跡に指定されている(「建築」福一〇一〇頁図版20参照)。
『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代、末寺四十二院を統ぶとあり、奥多摩町から府中市、目黒区、世田ケ谷区、神奈川県、埼玉県、京都方面にまで末寺を有していた。市内に現存する末寺は十一か寺である。(「青梅市史」より)
青梅市教育委員会掲示による海禅寺の縁起
瑞竜山海禅寺
この寺は群馬県白井雙林寺末で、本尊は釈迦如来である。はじめ長勝山福禅寺と号し寛正年間(一四六〇〜六五)雙林寺第二世一州正伊を開山としたという。天文の頃五世太古禅梁は市内下村の生まれ、武井氏の出で学徳が高く、領主三田綱秀の信望が厚かった。そのことから当寺は三田氏の菩提寺となった。永禄六年(一五六三)辛垣城落城の際兵火にかかり、のち天正十八年(一五九〇)第七世天江東岳により諸堂が再建されたが、江戸時代になって再び火災にかかり、現存の本堂は元禄十一年(一六九八)の再建である。境内には都指定の三田氏供養塔があり、市重宝三点を蔵している。(青梅市教育委員会掲示より)
海禅寺所蔵の文化財
- 海禅寺三田氏墓(東京都指定旧跡)
- 海禅寺境域(東京都指定史跡)
- 海禅寺総門(青梅市指定有形文化財)
- 正親町天皇の綸旨(青梅市指定有形文化財)
- 関州徳光禅師の称号下賜の勅書(青梅市指定有形文化財)
- 桃の里の歌碑
海禅寺三田氏墓
三田氏一族の墓と伝えられるこれら一群の宝飾印塔、および五輪塔は三田氏個人の墓石ではなく、形式から見て桃山時代または江戸時代初期に設置された供養塔であろうと思われる。
三田氏は平姓の系譜を持つといわれており南北朝期から戦国時代に活躍した奥多摩地区の豪族であったが、永禄六年(一五五九)六月三田氏最後の領主綱秀は北条氏照に攻められ、二俣尾の辛垣城で滅ぼされた。また勝沼城も三田氏の築城になるもので、辛垣城落城の前に三田氏みずからの手で廃城したものであるという。(東京都教育委員会掲示より)
海禅寺境域
瑞龍山海禅寺は、寛正年間(一四六〇〜六五)に僧益芝永謙が草庵を営み、長勝庵と号したのが始まりで、開山は一州正伊と伝えられ、長勝山福禅寺と称していました。
当寺はこの地の豪族三田氏の厚い保護を受けていました。五世太古は三田弾正少弼綱秀の援助によって再興したとされますが、小田原北条氏により三田氏が滅亡した際、兵火にかかって諸堂ことごとく焼失したとされます。
その後、天正年間(一五七三〜九二)に復興整備がなされ、天正一九年(一五九一)に徳川家康より一五石の朱印状を受けたときに海禅寺に改称したと言われています。
慶長年間以降、諸堂の復興がなされますが、その後も数度罹災しています。慶長一七年(一六一二)建立とされる総門、寛政五年(一七九三)再建とされる山門や、昭和の火事で大きな被害を受けた本堂(元禄一一年)などの堂宇を中心とした、多摩地方山岳部の中世禅宗伽藍の典型的な境域を残しています。
境内には滅亡した三田氏一族の供養塔もあります。(東京都教育委員会掲示より)
海禅寺総門
海禅寺は、群馬県北群馬郡子持村中郷・雙林寺の末寺で曹洞宗である。天文の頃(一五三二〜一五五四)三田氏の菩提寺となったと言われている。
天正三年(一五七五)勅願所に列せられた寺格をもち、江戸時代中頃には末寺四十二寺を数えた。
境内は、本堂・鐘楼・山門・総門・庫裏などの堂宇からなり、東京都指定史跡になっている。
寺伝によると、総門は、慶長十七年(一六一二)に山門とともに造立されたとあり、現存する様式からも江戸時代初期の建立と考えられる。
一間一戸の四脚門で切妻造銅板葺き(かつては茅葺き)である。本柱はご平は白、控柱は角は白でともに礎石建ちとし、本柱が直接化粧棟木を支えている。冠木と本柱、頭貫と控柱は鼻栓でとめられ素朴な味わいを感じさせる。
市内に現存する近世期の門の中でも代表的な構造をもつ総門の一つである。
平成七年に解体修理が完了、この時に東側の市道中央部から現在の位置に移築された。(青梅市教育委員会掲示より)
海禅寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「青梅市史」