観谷山常徳院|世田谷城の守護とするため、船橋から当地へ移転
常徳院の概要
曹洞宗寺院の常徳院は、観谷山と号します。常徳院の創建年代は詳らかではないものの、延徳明応年間(1489-1501)に浄徳院と称して世田谷区船橋に開創、世田谷城の守護とするために多摩郡二俣尾村海禅寺二世益芝永謙和尚を迎え寺名を常徳院と改めて宮坂へ移転したといいます。
山号 | 観谷山 |
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院号 | 常徳院 |
寺号 | - |
本尊 | 十一面観音像 |
住所 | 世田谷区宮坂2-1-11 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 常徳幼稚園 |
常徳院の縁起
常徳院の創建年代は詳らかではないものの、延徳明応年間(1489-1501)に浄徳院と称して世田谷区船橋(船橋観音堂北)に開創、世田谷城の守護とするために多摩郡二俣尾村海禅寺二世益芝永謙和尚を迎え寺名を常徳院と改めて宮坂へ移転したといいます。
新編武蔵風土記稿による常徳院の縁起
(世田谷村)常徳院
境内除地十一石、字宮の坂にあり、禅宗にて多摩郡二俣尾村海禅寺の末寺なり、山を観谷と號す、昔は浄徳院と稱せり。當寺の草創は、足利将軍義尚公なりと云傳ふ。過去帳にのする處は常徳院尚山源義大庵主、延徳元年三月二十六日としるせり。寺傳いふ、此寺は昔わづかなる庵室なりしを、一年義尚将軍武蔵國に下りて、此世田ヶ谷の地にわたりたまひしとき、此庵室にしばしやどらせたまひしかば、世をさりたまひし後その故をもて一寺に建立し開基とは唱へしなりと云々、又傳る所は此浄徳院は、吉良氏朝の一族なりと。此の二説を合て按ずるに、義尚公は法諡を常徳院殿松山道治大居士といひ、延徳元年三月廿六日葬したまひしなり。是過去帳に載る處と文字はすこしたがひたれど、年月等同じければ、全く義尚公の事を云なるべし。此事尤うたがうべし。當寺の開基はすでにここに蔵する古文書に當寺を浄徳院とあり、たまたま此院號のひびき似たるを以て、かく附会し、過去帳にも義尚公の法諡とて、又杜撰に記しあやまりきたるものと見ゆ。一の傳へに吉良氏朝の一族といふはさもあるべし。されど吉良系図を見るに、氏朝は慶長八年九月卒せし人なれば、此人の祖先ならんか、いかにも吉良家の草創といはばさもあるべけれど、其誰人なることは定かならず。開山は益芝永謙大和尚とて、明応三年三月十八日示寂の人なり。
表門。南向にて三間なり。
鐘楼。門を入て右にあり、天明八年の鐘銘にして、径二尺長さ三尺餘なり。
本堂。十間に七間、南向なり。本尊十一面観音慈覚大師の作なり、相傳ふ此本尊は吉良氏朝の信佛にして、當寺に寄附すと。按に下にのする古文書の趣によるに、氏朝の寄附せしと云は疑ふべし。此観音はもとよりここにたてるを、元亀四年氏朝の田地を寄附せし状あるにより、かく言ひ傳ふるなるべし。猶中地山城が奉る處の文によりてもしるべし。
寺寳古文書二通。
白山社。門を入て左にあり、社は九尺四方、當寺の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より)
常徳院の周辺図