金剛山玉泉寺|青梅七福神の弁財天
玉泉寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の玉泉寺は、金剛山と号します。玉泉寺は、鎌倉建長寺十七世大古世源が文保年間(1317-1318)に開山、天正19年(1591)には徳川家康から寺領3石の御朱印状を拝領、江戸期には末寺17ヶ寺を有していたといいます。青梅七福神の弁財天です。
山号 | 金剛山 |
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院号 | - |
寺号 | 玉泉寺 |
住所 | 青梅市長淵3-299 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
※玉泉寺弁財天画像は、川田様より提供いただきました
玉泉寺の縁起
玉泉寺は、鎌倉建長寺十七世大古世源が文保年間(1317-1318)に開山、天正19年(1591)には徳川家康から寺領3石の御朱印状を拝領、江戸期には末寺17ヶ寺を有していたといいます。
新編武蔵風土記稿による玉泉寺の縁起
(長淵村)玉泉寺
境内千三百坪、下村の北によりてあり、禅宗臨済派、鎌倉建長寺末、金剛山と號す、開山は建長寺第十七世國一禅師なり、禅師諱は世源、號を大古と云、常陸國の人にて佛光禅師に嗣法せり、元享元年癸酉九月廿五日八十九歳にして示寂す、本尊観音木の坐像、長一尺、本堂九間四尺に六間、巽向なり、天正十九年御朱印を附せられ、村内にて寺領三石の地を賜へり。
寺寶。
大般若経全部。寫本なり、跋に建暦二年大歳壬申二月五日、筆師源也、願主藤原氏とあり、建暦はこの寺創建より遥に前なり、さればいつの比か外より持来り置きし者なるか。
門。南向なり、九尺に二間、金剛山の額をかかぐ。
釋迦堂。本堂の巽の方にあり、三間四方、釋迦は木の坐像にて長二尺餘り、運慶の作なりと云、脇士文殊・普賢木の坐像にて、長おのおの一尺餘り。
白山辨天合社。釋迦堂の傍にあり。
辨財天。本堂の前なる池中の小嶋にあり。
石地蔵三軀。門前の左右にあり。
鐘楼。本堂の側にあり、鐘は圓徑二尺三寸(、銘文は左にのせたり。(新編武蔵風土記稿より)
「青梅市史」による玉泉寺の縁起
玉泉寺(金剛山)
長淵(現・長淵三丁目)にあり、本尊は十一面観音菩薩である。建長五年(一二五三)の鎌倉建長寺建立から六十五年ほど後、文保年間(一三一七~八)建長寺十七世大古世源を開山として創立されたと伝える。世源は建長寺開山仏光禅師の教えを受け嗣法となり、国一禅師の賜号を受け、元亨元年(一三二一)八十九歳で遷化している。天正十六年(一五八八)北条氏直からの鐘借用状を蔵し、市有形文化財の指定を受けている。
天正十九年、徳川氏より寺領三石の朱印状を寄せられ、江戸時代、境内千三百坪、釈迦堂、鐘楼をもち、元禄五年(一六九二)鋳造の銅鐘がかけられ、末寺十七か寺を統べた本寺である。大正二年七月火災にかかり、同四年再建され、山門のみ旧様をとどめていたが、平成四、五年に旧図に基づき大改築中である。境内の正応元年(一二八八)の青石塔婆と他一基、および元和三年(一六一七)造立銘を有する大応国師像、また寺の開闢より百年以前の建暦二年(一二一二)の奥書のある大般若経四百巻はともに市有形文化財に指定されている。境内の古い湧水池畔には弁天が祀られ、正月の七福神めぐりにはとくに賑わう。『新編武蔵風土記稿』にある十七か寺の末寺は多摩川沿いに分布しており、そのうち市内には現在六か寺がある。(「青梅市史」より)
境内掲示による玉泉寺の縁起
文保年間(一三一七-一三一八)鎌倉建長寺十七世大古世源を開山として創立された臨済宗の寺院である。天正十九年(一五九一)、幕府より寺領三石の朱印状が寄せられた。江戸時代は境内千九百坪に釈迦堂、鐘楼、山門を配置し、末寺十七寺を有していた。
大正二年火災にかかり、本堂および諸堂は往事の姿を失ったが、同四年に檀信徒の協力を得て再建され、さらに平成六年、新たに本堂等が新築された。
しかし、山門をはじめ石垣、礎石、湧水池などは旧態をとどめ、さらに、境内には市指定有形文化財正応元年(一二八八)銘の板碑、北条氏の鐘借用状、建暦二年(一二一二)の奥書のある大般若経四百巻、元和三年(一六一七)造立の銘がある大応国師像を蔵してる。(青梅市教育委員会掲示より)
玉泉寺所蔵の文化財
- 金剛山玉泉寺(市指定旧跡)
- 北条氏直からの鐘借用状(市指定文化財)
- 正応元年(一二八八)の青石塔婆・他一基(市指定文化財)
- 元和三年(一六一七)造立銘大応国師像(市指定文化財)
- 般若経四百巻(市指定文化財)
玉泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「青梅市史」