妙見山宗徳寺|青梅市西分町にある臨済宗建長寺派寺院
宗徳寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の宗徳寺は、妙見山と号します。宗徳寺は、一華芳峰(文保2年1318年寂)が創建したと伝えられ。一庵光淋(永享5年1433年寂)が永享年間(1429-1440)に中興したといいます。慶安2年(1649)には別当を勤めていた妙見社領として3石の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 妙見山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗徳寺 |
住所 | 青梅市西分町1-33 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宗徳寺の縁起
宗徳寺は、一華芳峰(文保2年1318年寂)が創建したと伝えられ。一庵光淋(永享5年1433年寂)が永享年間(1429-1440)に中興したといいます。慶安2年(1649)には別当を勤めていた妙見社領として3石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による宗徳寺の縁起
(西分村)妙見社別當宗徳寺
社の傍にあり、臨済宗、多磨郡長淵村玉泉寺の末、妙見山と號す、本堂は近き頃丙丁の災にかかりし後、造營の企あれども未だ其功をおはらず、本尊地蔵木の坐像にて長さ一尺二寸、開山一菴光林は永享五年寂せりと云へば、この寺も舊くより草創せしことにて、妙見の社の鎮座をもしているべきなり。(新編武蔵風土記稿より)
「青梅市史」による宗徳寺の縁起
宗徳寺 (妙見山)
西分(西分町一丁目)にあり、本尊は地蔵菩薩である。開山は一華芳峰と伝え、文保二年(一三一八)三月示寂。後、永享年間(一四二九-四〇)一庵光淋が中興し、慶安二年(一六四九)妙見領三石の朱印状を寄せられた。享和二年(一八〇二)二月十四日炎上、天保年間(一八三〇~四三)十七世大梁により再建された。禅寺などで祀っていた伽藍神として裏山の妙見山(現・西分神社)が山号の由来だが、これからも青梅の北辰(北極星)信仰の名残りがわかる。寺宝として『祖英集』など貴重な仏典の古版本が伝えられている。(「青梅市史」より)
宗徳寺所蔵の文化財
- 根岸典則墓(東京都指定旧跡)
根岸典則墓
典則は江戸時代後半の文化・文政期の青梅における文芸創作活動の市道的役割をはたした人物で、国学者で詩人。宝暦八年(一七五八)八月青梅縞仲買商で町年寄をつとめていた青梅本町の根岸嘉右衛門(洗雪)の子として生まれた。幼妙文太郎。通称太兵衛、[山解]谷、鳳質とも号した。俳諧の根岸凉宇は叔父にあたる。和歌を日野大納言質枝に、儒学を折衷学派の井上金峨に学んだ。また、禅を鎌倉の峨山和尚について修めるなど学問領域は多方面に及んだ。晩年は家業を養子の喜則に譲り、著作や文芸指導に専念した。その生涯を通じて多くの文人と交流し、門下を育てている。
天保二年(一八三一)に没した。
著書に「渓雲軒和歌集」「老懐百首」「[山解]谷詩集」「扶桑蒙求」(東京都教育委員会掲示より)
宗徳寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「青梅市史」