熊野神社(棚澤)|棚澤村の西部地区の鎮守、旧村社
熊野神社(棚澤)の概要
熊野神社(棚澤)は、西多摩郡奥多摩町棚澤にある神社です。熊野神社(棚澤)の創建年代等は不詳ながら、棚澤村の西部地区の鎮守として祀られていたといいます。明治41年、棚澤村の東部地区の鎮守多名澤神社(相殿将門神社)を合祀、村社に列格していました。(現在、将門神社は昭和50年旧地に再建)
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | 伊邪那美乃命、速玉男神、事解男乃命 |
相殿 | 八千矛命、将門霊神 |
境内社 | 天王社、竜神社、疱瘡社 |
住所 | 西多摩郡奥多摩町棚澤88 |
祭日 | 例大祭8月第三日曜日 |
備考 | - |
熊野神社(棚澤)の由緒
熊野神社(棚澤)の創建年代等は不詳ながら、棚澤村の西部地区の鎮守として祀られていたといいます。明治41年、棚澤村の東部地区の鎮守多名澤神社(相殿将門神社)を合祀、村社に列格していました。(現在、将門神社は昭和50年東部地区に再建)
新編武蔵風土記稿による熊野神社(棚澤)の由緒
(棚澤村)
熊野社
除地三畝九歩、村の西北の邊にあり、官丑を若林主馬と云、京都吉田家の配下なり、社は三尺八寸に五尺南向、祭神は伊弉諾尊、泉津事解男命、速玉男命をあはせ祀れり、社前に鳥居をたつ、當社は文安三丙寅年清水某、榊原某立願成就に因て、其かしこまりに鎮座せしものなりといふ、此二人の名さへ失ひたれば、その詳なることは傳へず、例祭は正月七日。(新編武蔵風土記稿より)
「奥多摩町史」による熊野神社(棚澤)の由緒
棚澤の熊野神社
文化十二年(一八一五)、棚澤村から書上げた「地誌捜索御改帳」(武蔵風土記の原資料となったもの)によれば、社名は「熊野三座権現」とあり、「伊弊諾尊」は「伊弊冊命」、願者を「清水某榊原某」と複数人にしていますが、これは榊原滑水氏(複姓)の一人のようです。この原文は
抑当社は文安三丙寅年、榊原清水氏の某、依心願奉勧請所也。尓来産子磐栄仕毎年正月七日奉幣御酒御供矢鏑初(おみごくやぶさめ)執行仕来り申候
とあるのです。なお祭神名の書上「伊弊冊尊」を「伊弊諾尊」としたのは編者が意識して改めたかも知れません。
「出雲国造神賀詞」によると熊野神社は「伊射那伎」の日真名子、「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」とあり、紀伊の熊野本宮の祭神は「家都御子大神」であり、ともに穀霊神といわれます。なお祭神の一柱、速玉男命は熊野新宮の祭神です。
棚澤区ではもと舟川沢(はとのす駅東側の沢)を境界として大略東側は将門神社、西側は熊野神社と氏子が二分されていたのですが旧村単位に一の幣吊供進指定社を設けるに当り、明治四十一年、将門神社を廃して、これを熊野神社に合祀することとなり、将門神社の本殿、灯寵等をここへ移し、明治四十四年拝殿を新築して現状に至っているのです。
歴史のある多名沢神社-将門神社がどうして廃されたかというと、当時の皇国史観の上から将門神社の名は好ましくないという名分があり、また合祀にいたるいま一つの理由は区内を両分して神社祭礼を行う場合兎角無用な競争心や摩擦ができるおそれがあったからといいます。(「奥多摩町史」より)
「東京都神社名鑑」による熊野神社(棚澤)の由緒
創建年代不詳。もと熊野大権現と称した。明治二年、社号を現在に改めた。当時は前橋藩の管轄であった。
戦後例祭日を七月から本来の八月にもどし、子供の参加を容易にした。また明治末に合祀した将門神社を、昭和五十年旧跡地に建設。(「東京都神社名鑑」より)
熊野神社(棚澤)の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 奥多摩町史
- 東京都神社名鑑