将門神社|西多摩郡奥多摩町棚澤の神社

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将門神社|領主三田弾正忠平次秀等が尊崇、棚澤村東部地区の鎮守

将門神社の概要

将門神社は、西多摩郡奥多摩町棚澤にある神社です。将門神社は、日本武尊が東国平定の折に素戔嗚尊・大己貴命を祀って創祀したと伝えられます。将門神社は、かつて日本武尊の祭った多摩八座の一といわれる穴沢天神があった地に、鎮守府将軍藤原利仁が陣中衛護の神として八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、その後さらに将軍太郎良門が亡父の霊像を彫作して平親王将門がここへ祭られ、以来社号は平親王社と呼ぶようになったといいます。永正年間(1504-1520)には領主三田弾正忠平次秀等が尊崇し地域の総鎮守とし、江戸期には、棚澤村東部地区の鎮守だったといいます。明治41年熊野神社(棚澤)に合祀されたものの、昭和50年に野村孝之氏を中心とした地域住民が社地を整備、再建したといいます。

将門神社
将門神社の概要
社号 将門神社
祭神 平親王将門霊、八千戈命
相殿 高皇産霊神
境内社 穴沢天神社
住所 西多摩郡奥多摩町棚澤178
祭日 例大祭8月10日
備考 -



将門神社の由緒

将門神社は、かつて日本武尊の祭った多摩八座の一といわれる穴沢天神があった地に、鎮守府将軍藤原利仁が陣中衛護の神として八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、その後さらに将軍太郎良門が亡父の霊像を彫作して平親王将門がここへ祭られ、以来社号は平親王社と呼ぶようになったといいます。永正年間(1504-1520)には領主三田弾正忠平次秀等が尊崇し地域の総鎮守とし、江戸期には、棚澤村東部地区の鎮守だったといいます。新編武蔵風土記稿によると、穴沢天神は奥の院として祀られ、将門神社は多名沢神社の相殿として祀られていると記載されています。明治41年当時の皇国史観の上から将門神社の名は好ましくないということから、熊野神社(棚澤)に合祀されたものの、昭和50年に野村孝之氏を中心とした地域住民が社地を整備、再建したといいます。

新編武蔵風土記稿による将門神社の由緒

(棚澤村)
多名澤神社相殿平将門靈像
除地三段四畝、村の中央にて往還に鳥居をたて、それより一丁許山を登りて本社にいたる、五尺に六尺南に向ふ、上屋二間に三間半、是は将門の社にて多名澤社は却て奥の院と稱す、神體は神璽にして箱におさめ秘封せり、多名澤元穴澤といひしを、音の近きによりいつとなく唱へかへたるものなりと傳へ云、昔人皇五十代桓武天皇の御宇、延暦年中鎮守府将軍利仁陣中擁護の神なればとて、八千矛の神を崇め祀れる所にして、則【延喜式】に載る所多磨郡八座の一なりといへど、【神名帳】には穴澤天神とあり、ことに下に載る所の穴澤天神の社は、當社より古く鎮座せしものなれば、【神名帳】にのせる所はかの社の事なるべし、然るに當社は将門の嫡子将軍太郎、天徳年鑄父の遺跡をしたひて當所に来り、其肖像を彫刻してこれを納め、其後遥の星霜をへて永正年中、それが子孫當村の領主三田弾正忠平次秀等が信仰の餘り、惣鎮守となしければ、次第に勢盛になりゆきて、後には誤りてかく式内の神社とせし神なるか、又彌當社式内とせば、かの天神は末社などにてもありしを、幸ひ天神の社なれば穴澤の號をおはせしものなるか、何れにも式内の社一村の内に二社あるべき謂れなければ疑ふべし、其上同郡矢の口村に天満宮の社あり、是式内穴澤の神社にして、孝安天皇四年に鎮座せし二千餘年の舊社なりといひ、其上矢ノ口村古老の説などを以て考ふるに、これぞ式内にてもあるべきか、又神主兵庫が家の記に、永承四丑年源賴義朝臣宿願のことによりて、武相兩州の舊社へ神田を寄られしことあり、其後年歴て又延元二年後醍醐帝の御宇にも神供寄附のことあり、又永正元年に至りて領主三田弾正忠年穀豊穣を祈りて神劔を納め、社頭を再修し總鎮守となし、御入國の後慶長十九亥年大坂の役に、東照宮武州大小の神社へ御祈誓ありしとき、當社も其内にあづかれりと、此等のこと委くしるしたれど、古く記録せしにもあらず、又此こと誠ならんには式内の社にあらずとも古き社なれば、かかることもあるべし、さればこれを以て式内の證ともいひかたし、尚下天神の條下及び矢ノ口村神社の條合せみるべし、例祭は一ヶ年に五たびあり、正月五日・二月十四日・六月十五日・八月朔日・九月十九日なり、其内時により流鏑馬のさま或は祇園會獅子舞等をなすと云。
神劔。永正元甲子年領主三田弾正忠平次秀が納る所なり、長さ九寸三分、中心長さ三寸五分、その圖並に鰐口の圖ともに上に出せり、寛永十五年の棟札あり、文中考證によしなければこれを略す。
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穴澤天神社
除地百坪、将門社より山をこへ五丁程北の方にあり、祭神は高皇産霊尊に天光珠星亜肖氣尊をしてあはせ祀れり、神體は是も神璽にして箱にをさめ人の見ることをゆるさず、傳へ云當社は日本武尊東國の夷賊を征伐し給ふとき、暫く此所に軍旅を屯し給ひしが、夜中なにとなく光明かがやきければ、是正しく神靈降臨の地なりとて、一紙の幣帛を納め穴澤天神とあがめたるものといひ、土人の傳へのみにて正しく記録せしものあるにもあらず、うけかひがたし、事は多名澤の條下に辨したれば合せみるべし、其後遥の星霜をへて鎌倉の右大将、國家平安の爲め式内の神社へ神供をよせられしことあり、此時當社へも三百戸を附せられしが、後爭亂しばしばつづきて、それらのことも失ひたりと云、是また疑ふべし、例祭は三月十五日。(新編武蔵風土記稿より)

「奥多摩町史」による将門神社の由緒

将門神社と穴沢天神
「棚澤村地誌捜索御改帳」は、将門神社と穴沢天神について次のように記述しています。
御除地三反四畝歩
多名沢神社 祭神八千戈命
将門大明神 平親王将門霊
二座
本社南向 五尺台間 上屋弐間 三間半 略拝殿兼
当社は桓武天皇延暦年中鎮守府将軍武蔵守利仁、陣中衛護の御願に依て、軍神八千戈命をもって多名沢の神社と崇祭り、其後朱雀帝承平年中平親王将門再祭把たり。嫡子将軍太郎良門亡父の霊像を彫作して相殿に奉安してこれを置く。以来称号は平親王社たり。
永正元甲子年、年穀祈願のため領主弾正忠平次秀候社頭に神劔を奉納御再建総鎮守と崇めらる。(中略)
延喜帝御宇 式央に載するところ武蔵国四十四座の内多摩郡八社の一座 今奥の院と称する是なり。
御免地 百坪
穴沢天神社 祭神高皇産霊神一座 御相殿 天光珠星亜肖気尊
そもそも起立は日本武尊東夷御征伐の御時 安国治平の御宿願によって御岳に軍馬を屯し給う夜、当山に光輝現われ、尊、瑞光を尋ねて直に北谷深遠に到りたまいまことに神霊降臨ありと、即ち一紙の幣を捧げて穴沢天神と崇めまつる。
後に穴沢を多名沢と唱う所以は音の通ずるためか、又はいう八千戈神御鎮座これあり、御神名の多き故にや沢もなお沢山というか、是等謂後邑の名其事の濫觴かと
鎌倉右大将家之御治世、治国平天下のため式内の神社に御祈り神供免地御寄附の時即当社三百戸、中頃の国乱に及びこれを空失したりといえども今に証地のみこれを存す。
毎年御祭礼
二月十四日 忌日祭
六月五日 奉幣 神酒献供 矢鏑初神事
六月十五日 祇園祭栄木神事
八月一日 獅子舞祭礼
九月十五日 奉幣祝詞
霜月十五日 神酒祭 皆済祭
右社地は御除地の内にて山之中通り嵯峨なる平地に御座候
この記録を整理すると次のようになります。
そのむかしここに日本武尊の祭った多摩八座の一といわれる穴沢天神があった。延喜年中、その下へ鎮守府将軍藤原利仁が陣中衛護の神として八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、その後さらに平親王将門がここへ祭られて二座となり、それ以来社号は平親王社と呼ぶようになり、穴沢天神社は奥の院となった。
将門神社は明治四十一年地区内の熊野神社(棚澤)に合杷され、本殿、将門霊像、灯籠は熊野神社(棚澤)へ移設されました。霊像は長さ四二センチメートルほどで前床に坐した木像、灯籠は文政三年(一八二〇)建立されたもので九曜星と巻藤の紋があります。
熊野神社へ合祀後、将門神社の跡地は荒廃にまかされていましたが、昭和五十年、野村孝之氏を中心とした地域住民の信仰から社地を整備し、総檜造りの社殿が再建され、また社地の一隅に将門の女、御幸姫を紀る御幸姫観音の石像が造立されました。
将門神社の内陣には弓を携えた将門馬上姿の銅像(新作)が安置されていますが、これは東京赤坂氷川神社の将門神像を模して造られ、御幸姫観音の像はもと将門宮の神職家三国家に所蔵されていた護符の像影から写し取ったものです。
現在将門神社の後背地には不動堂があり、その傍に穴沢天神の小祠がありますが、その御神体は自然石のものですが『棚澤地誌草稿』はこれを、次のように説明しています。
穴沢天神 神璽石高さ一尺二寸巾一尺一寸程の奇石なり、高さ一尺八寸許りの箱宮に蔵めまた陰陽両箇の石あり、陽石は長さ七寸回り三寸許り、陰石は長さ四寸五分、巾三寸二分、神璽の石と同箱に納めたり。(「奥多摩町史」より)

「東京都神社名鑑」による将門神社の由緒

非法人のため該当記載なし(「東京都神社名鑑」より)


将門神社の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 奥多摩町史
  • 東京都神社名鑑