海澤神社|京都加茂両社の加茂別雷神を祀る神社
海澤神社の概要
海澤神社は、西多摩郡奥多摩町海沢にある神社です。海澤神社の創建年代等は不詳ながら、京都加茂両社の加茂別雷神を祀り加茂社と称し、村の産土神として祀られていたといいます明治41年海沢神社と改称、明治45年村内の大山祇神社を合祀したといいます。
社号 | 海澤神社 |
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祭神 | 別雷神、大山祇命 |
相殿 | - |
境内社 | 山祇神社、神明社 |
住所 | 西多摩郡奥多摩町海沢630 |
祭日 | 例大祭8月第三日曜日 |
備考 | - |
海澤神社の由緒
海澤神社の創建年代等は不詳ながら、京都加茂両社の加茂別雷神を祀り加茂社と称し、村の産土神として祀られていたといいます明治41年海沢神社と改称、明治45年村内の大山祇神社を合祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による海澤神社の由緒
(海澤村)
賀茂社
年貢地七畝十五歩、上村の中ほどにあり、鎮座の年歴詳ならず、されど村の産神にして、例祭正月廿一日、村民の持なり、社前に二間に三間の拝殿をつくれり。
大山祇社
年貢地十坪、南の方なる山腹にあり、これもおなじく小祠なり、百姓持。
大山祇社
年貢地五十坪、下村の東にあり、小社なり、社前に拝殿をたつ二間に三間、下村の鎮守にして、例祭正月二十日、里正持なり。 (新編武蔵風土記稿より)
「奥多摩町史」による海澤神社の由緒
海沢神社
海沢神社はもと加茂大明神と呼び明治年間、下野集落東端の山祇神社を合記して現在の社号に改められたものです。『海沢村地誌』の中からこの両社に対する記述を抄出して見ます。
加茂大神 村社 社地縦十五問、横十一間、面積百六十五坪、元標ヨリ辰巳ノ方字下野六百三十番村民共有地ニアリ別雷神ヲ祭ル 鎮座年月干支未ダ詳ナラズ元加茂大明神ト称ス明治維新ノ際加茂大神ト改称ス該地嘉永六時癸丑年三月二日壱村残ラズ焼失セシトキ共ニ焼失シ同七甲寅年社殿ヲ造営ス 社地ハ一堆ノ向山ニテ稚木ノ槍杉数株葱々ト繁茂ス該地昔時ハ向雲寺ノ地ト連続シテ前面ハ壱箇ノ池沼海ノ如ク湖水ノ如クナリシヨリ村名モ茲ニ一起因スト云へり例祭一月二十一日社殿台間六凡一寸ニ四尺二寸 覆舎壱間三尺ニ二間 板葺南向ナリ 鳥居壱基開キ七尺ナリ、石剣二本 一ハ長二尺九寸回リ八寸二分 折断シテ三箇トナレリ 一ハ長一尺八寸回り壱尺ニ寸上ノ方些シク欠損シタリ(石階、板札の記述省略)
山紙大神 雑社 社地縦十間横七間 面積七十坪 原標ヨリ辰巳ノ方字下野五百四十番村民共有地ニアリ大山祇命ヲ祭ル鎮座年月干支未ダ詳ナラズ 元山神ト称ス維新ノ際山紙大神ト改称ス 社地ハ神路山ノ尾崎ニシテ高サ五丈有余ノ大巌ノ下ニテ数株ノ杉樹欝蒼ト繁茂シマタ壱根両株ノ稚木ノ銀杏ト壱根三株ノ桜アリ。
例祭一月二十日 社殿造営中ナリ覆舎壱間三尺ニ二間三尺杉皮葺西向ナリ 石劔壱本長サ二尺五寸回り一尺五寸五分 半ヨり折レテ側ノ巌石ノモトニアリ 鰐口二 一ハ径リ五寸 表ニ奉納施主原島茂兵衛 大工横川村加藤五郎右衛門尉吉重ト記シ背ニ武刕三田谷下野村万治三天庚子正月吉祥日ト記シタリ 一ハ径リ六寸 奉納御立願成就祈所 宝永八壬卯年正月吉祥日ト記シ背ニ山祇武刕三田領下野村小川七郎兵衛トアリ 神仏混淆禁止ノ令アリシヨリ取除キテ今ハ村民某ノ方ニ蔵メ置ク
だいたいこの記述で海沢神社の概要はつきています。加茂神社の宗社は京都の加茂両社で祭神は加茂別雷神(かものわけいかづちのかみ)ですが本町地内では他に小河内日指に加茂神社があります。この神がどうしてここに祭られたかは不明ですが、そのむかしこの社の裾部は大きな池沼で竜が棲んでいたという伝説がありますので或いはこの竜との連想によって雷の神が祭られたものでしょうか。また奉納の金石物が白丸の元栖神社と共通していることに気付きます。一つの鰐口は元栖神社の鰐口と同一作者が造っています。「武刕三田谷下野村」という地名も興味があります。「三田領」といわれる前に「三田谷」(やつ)といわれたものでしょう。「下野村」とは村名が統一されない時代の呼称です。(「奥多摩町史」より)
「東京都神社名鑑」による海澤神社の由緒
創建年代不詳。もと加茂大明神と称した。安政元年(一八五四)三月二日、社殿、什器、古額、棟札等の古記録を焼失、同二年一月二十一日再建。明治三年加茂神社と改め、同四十一年一月二十一日、海沢神社と改称し、同四十五年十二月二十六日、大山祇神社を合祀した。(「東京都神社名鑑」より)
海澤神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 奥多摩町史
- 東京都神社名鑑