寿清院|海禅寺七世の天江東岳和尚を勧請開山
寿清院の概要
曹洞宗寺院の寿清院は、氷川山と号します。寿清院の創建年代等は不詳ながら、海禅寺七世の天江東岳和尚を勧請開山とし、寺地地内峰畑沢右岸にあったといいます。文政年間(1818-1831)焼失してしまったため当地で再建したといいます。
山号 | 氷川山 |
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院号 | 寿清院 |
寺号 | - |
住所 | 西多摩郡奥多摩町氷川1874 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
寿清院の縁起
寿清院の創建年代等は不詳ながら、海禅寺七世の天江東岳和尚を勧請開山とし、寺地地内峰畑沢右岸にあったといいます。文政年間(1818-1831)焼失してしまったため当地で再建したといいます。
新編武蔵風土記稿による寿清院の縁起
(氷川村)壽清菴
年貢地の内寺畑一畝二十歩、小名とけにあり、光翁山と稱す、前と同宗(曹洞宗)、二又尾海禅寺の末、本堂北向、庫裏共五間半に二間半、本尊薬師木の立像長二尺一寸なるを安せり、開山開基の年歴を詳にせず。(新編武蔵風土記稿より)
「奥多摩町史」による寿清院の縁起
氷川山寿清院
『武蔵風土記』には「光翁山と称す。本尊薬師木の立像長一尺二寸なるを安せり」とありますが現在は氷川山といい、本尊は千手観世音でガラス厨子に納められています。
開基、草創の年代は不詳で海禅寺七世の天江東岳和尚を勧請開山とします。もと寺地地内峰畑沢右岸にあったのですが文政年間焼失してより現在地へ再建しました。明治四年、暴風のため転覆倒壊、明治二十五年再建、さらに昭和三十六年、現況のように面目を一新して再建されました。
もとの所在地の字名を「寺地」というのはこの寺による地名でしょうから寺歴の古さが証明されます。本尊は本寺の海禅寺から奉安された新像で、台座は二力神が蓮座を差上げている構えです。(「奥多摩町史」より)
寿清院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「奥多摩町史」