丹叟院|村民市郎兵衛の先祖が開基
丹叟院の概要
曹洞宗寺院の丹叟院は、西光山と号します。丹叟院は、当地の村民市郎兵衛の先祖が開基となり、海禅寺第7世天江東岳(慶長18年1613年寂)が開山したといいます。村内にあった萬年山福寿院や、小学校に供用されていた無量山西光寺を合寺、西光山丹叟院と称したといいます。
山号 | 西光山 |
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院号 | 丹叟院 |
寺号 | - |
住所 | 西多摩郡奥多摩町小丹波519 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
丹叟院の縁起
丹叟院は、当地の村民市郎兵衛の先祖が開基となり、海禅寺第7世天江東岳(慶長18年1613年寂)が開山したといいます。村内にあった萬年山福寿院や、小学校に供用されていた無量山西光寺を合寺、西光山丹叟院と称したといいます。
新編武蔵風土記稿による丹叟院の縁起
(小丹波村)
西光寺
除地五畝十歩、甲州街道の中程にあり、禅宗曹洞派にて、二俣尾村海禅寺末、無量山と號す、本堂九間に六間、本尊正観音坐像にて長六寸二分許なるを安す、開山は藝室慈俊と云、天文十五年六月廿六日寂す、開基は村の名主藤兵衛が先祖丹三郎なりと云。
彌陀堂。門を入て西の方にあり、堂二間半に三間、本尊立像にて長二尺許、外に秩父十四番の観音を移し安す。
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丹叟院
除地、一段二畝、村の北の方山ぎはにあり、梅石山と號す、本寺前に同じ、本堂五間に七間、本尊は正観音坐像木佛長六寸四分、開山を天江東岳と云、本寺第七世にて慶長十八年八月廿七日寂す、開基は百姓市郎兵衛が先祖なりといふ。
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福壽院
除地二十歩、村の西の方にあり、萬年山と號す、本寺は是も上にをなじ、本堂三間に五間、本尊は正観音坐像長八寸八分なるを安す、開山上にをなじ、開基詳ならず。
(新編武蔵風土記稿より)
「奥多摩町史」による丹叟院の縁起
西光山丹叟院
西光山丹曳院は昭和二十三年、岡村小丹波地内の無量山西光寺と万松山(一に梅石山)丹叟院が合寺したもので伽藍は昭和四十六年四月再建したものです。
無量山西光寺は青梅市二俣尾、海禅寺四世の芸室慈俊和尚(天文十五年寂)を開山とし、万松山丹史院は慶安二年(一六四九)舜作泰養和尚が海禅寺七世の天江東岳大和尚を勧請開山として創建したものです。
本堂は間口七間、奥行六間、寄棟造り瓦葺で、檀地の小丹波集落を一眸できる要所にあります。
本尊は正観世音菩薩・坐像で、脇侍として提元菩薩、達磨大師の小像が控えまず。この寺は無量山西光寺や万年山福寿院等が併合され、これらの旧本尊の釈迦像、正観音、十一面観音像、前住、開山像等が安置されています。なお別間に内金外黒塗の厨子に蔵められた弁才天木像があります。毘沙門天、大黒天を脇侍とし、製作年代、作者等は不詳ですが、相当の古仏であり、霊像だと伝えられています。
阿弥陀堂
境内の阿称陀堂はもと西光寺の境内にあったものを移築したものでもとの建築年代は一説に大永年間と伝え、本町地内の建造物としては最古のものと見られます。
内障は三間に区切られ、正面に勢至菩薩、観音菩薩を脇侍とした一尺七寸の弥陀像を安じ、左右の間には三十四観音が十七体ずつ安置されています。この三十四観音がどうしてここへ安置されたかは不明ですが、秩父三十四番観音のうちの第十四番観音だと伝えられます。
なお向って左側に張出し壇をしつらえて二鬼を従えた閻魔像が安置されています。堂の前庭には西光寺境内から移設された多くの石仏類が建立されています。
合併されたもとの西光寺は小丹波集落の中央にあり、明治の中ごろまでは小学校として利用され、昭和二十三年丹叟院へ合併以後は保育園となっていましたが、昭和五十年解体撤去されました。
福寿院は寛保二年(一七四二)の関東大洪水の時、民家等と共に堂舎住僧共に水没し、その後衰頽したと『小丹波村地誌草稿』(明治十一年)に記述されています。(「奥多摩町史」より)
丹叟院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「奥多摩町史」