感應山本立寺。大田区嶺に開山、池上本門寺25世日顗中興
本立寺の概要
日蓮宗寺院の本立寺は、感應山と号します。本立寺は、本覚院日立(寛永16年1639年没)が大田区嶺に開山したといいます。地頭白井平右衛門が正徳4年(1714)お家取り潰しとなった際に遺託を受けた当地の里正武左衛門が、当寺を今宿に移転、池上本門寺25世日顗(宝暦3年年1753寂)が中興したといいます。
山号 | 感應山 |
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院号 | - |
寺号 | 本立寺 |
本尊 | 大曼荼羅 |
住所 | 横浜市旭区今宿西町574 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本立寺の縁起
本立寺は、本覚院日立(寛永16年1639年没)が大田区嶺に開山したといいます。地頭白井平右衛門が正徳4年(1714)お家取り潰しとなった際に遺託を受けた当地の里正武左衛門が、当寺を今宿に移転、池上本門寺25世日顗(宝暦3年年1753寂)が中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による本立寺の縁起
(今宿村)本立寺
除地、四畝二歩、村の北にあり、日蓮宗、荏原郡池上本門寺末、感應山と號す、本堂七間に七間南向なり、本尊三寶を安す、當寺は昔荏原郡峰村にあり、此地へ引移せし由来は、もとの地頭白井平右衛門と云もの罪あるにより、正徳四年其家禄没収せられしとき、里正武左衛門地頭の遺託をうけ、先祖菩提のために願望をおこし、享保三年當寺を峯村より移せりと云、中興開基は本山二十五世日顗隠居の後ここに住し、寶暦三年に寂せり。
(嶺村)本立寺蹟
釈護子八幡社の邊なり。昔は除地7畝ばかりありて、法華宗当徳山と号せしに、当寺の先住日立年老て本覚寺へ隠居せり。其頃本覚寺は続の庵なりしを、日立一寺に取建しかば、夫より本覚寺は盛んになり、当寺は衰微せしゆへ、本覚寺より兼住せり。時に享保15年10月、当寺を都筑郡神奈川領今宿村へ移さんことを願ひ上げてより、当村の除地7畝を返し奉り、今は畑となれり。なを彼の村の條下に出せり。 (新編武蔵風土記稿より)
本立寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿