東漸寺。横浜市磯子区杉田にある臨済宗建長寺派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

霊桐山東漸寺。臨済宗関東十刹の一、金澤觀音靈場

東漸寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の東漸寺は、霊桐山と号します。東漸寺は、北條備前守宗長を開基檀越、鎌倉建長寺開山大覺禅師の高弟宏覺禪師を開祖として正安3年(1301)に開山、塔頭六箇院末寺六箇寺を擁し、臨済宗関東十刹の一つです。金沢三十四所観音霊場30番です。

東漸寺
東漸寺の概要
山号 霊桐山
院号 -
寺号 東漸寺
住所 横浜市磯子区杉田1-9-1
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



東漸寺の縁起

東漸寺は、北條備前守宗長を開基檀越、鎌倉建長寺開山大覺禅師の高弟宏覺禪師を開祖として正安3年(1301)に開山、塔頭六箇院末寺六箇寺を擁し、臨済宗関東十刹の一つです。

新編武蔵風土記稿による東漸寺の縁起

(杉田村)東漸寺
境内、除地、三丁に二丁、小名門前にあり、禅宗臨済派、關東十刹の一なり、靈桐山と號す、惣門を入こと凡十八九間にして、中門を立、靈桐山の額を掲ぐ、落款に見圓覺峻衡碩書とあり、又五六間にして池あり、小橋を架す、又二三十間にして本堂に至る、中門の内左右に塔頭ならべり、下に出す、相傳ふ正安三年北條備前守宗長開基檀越として、開山宏覺禅師をして當寺を創建せしむ、寺記宗長を時長或は貞長に作る、相模守時政が五代の孫なりと云、按に【北條系圖】に遠江守朝時が子に備前守時長あり、【東鑑】に據は、此人建長四年八月二十六日卒せしなれば、年代三十餘年上れり、時長子備前守太郎定長は、正安の頃の人なれば、此人亡父時長菩提の爲に當寺を開きしなるべし、故に父子の名を混じてかく傳ふるにや、此人時政五代の孫なれば世數は符合せり、忌日を七月二十三日とするもの、【東鑑】時長の卒日と合はざれば、恐くは定長の卒日にて紀年を失せしなるべし、開山宏覺禅師は、鎌倉建長寺開山大覺禅師の高弟にして、嘉元四年十二月六日寂す、按に宗長善通の【北條系圖】には載せず、若くは定長の誤にや猶追考すべし。
(【延寶傳燈録】引用箇所省略)
これ等の作に據ば、當時寺域のこと推て知べし、【小田原役帳】に五十貫文、東漸寺分と記す、頗大寺なりしことしらる、天正の始房州里見氏渡海して、戦争の地に當りしかば、伽藍も衰廢に及びしと、又寺傳に中興開基間宮左衛門尉教信なりと云、【間宮系圖】に教信なし、恐らくは左衛門教信の誤歟、教信は寛永の頃の人にて當時の地頭なり、地域今も結界清寂にして殊勝の靈場なり。
本堂。六間に五間東向、本尊釋迦坐身長二尺四寸許、運慶作、阿難迦葉も同作、立像にて長二尺四寸許、又誕生佛をも安置す、長四寸。
開山堂。本堂の後にあり、二尺四方、堂内扁額に勅謚宏覺禅師と書す、花園院の宸翰なりと云、又外簷に見性の二字を扁す、是開山宏覺の筆と云、宏覺の像は椅子に倚る状也、長二尺餘、傍に開基北條備前守宗長の像あり、坐身長二尺餘、名字異同の説既に前に辨ぜり。
観音堂。二間四方、中門の内池の傍にあり、十一面観音なり、立身長四尺餘。
辨財天社。池中の嶼にあり、二尺四方、辨天は坐像長一尺八寸、池濶凡二百坪。
天神社。本堂の右にあり、小社。
稲荷社。開山堂の後にあり、是も小社。
鐘樓。本堂の左にあり、鐘高三尺四寸、周囲七尺、銘文左の如し。(銘文省略)
塔中
眞楽庵。本堂に向て右にあり、六間に四間、本尊正観音を安置す、妙覺禅師の起立と云、妙覺は元和四年十一月十八日寂す。
多福院。堂に向て左にあり、四間に三間、子安観音を本尊とす、象先文岑和尚の草創なり、文岑は康永元年十月八日寂す。
保福院蹟。堂の西方にあり、廣覺禅師の起立なりしが、今廢院と成て再建に及ばず。
成願院蹟。堂の西南にあり、佛地禅師の起立と云、佛地は應永二十三年七月二十三日寂すいへば、年代推て知べし、當院も再建に及ばず。
直傳庵。巽の方にあり、本尊薬師を安す、東震和尚の起立と云、東震は應永十八年六月五日寂す。
長慶庵。東の方にあり、本尊阿彌陀實堂和尚當庵を創し、正長元年五月十一日寂すと云。
正永院。境内巽の方にあり、三間に二間半、本尊地蔵を安置し、又別に十王の像を置、故に里人は十王堂と唱ふ、悦山和尚起立す、悦山は至徳三年十月十三日寂す。
東光庵。これも境外にて西南の方にあり、三間に二間半、本尊薬師、僧嶽祟草創す、此僧應永十九年十一月二十一日寂す。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による東漸寺の縁起

東漸寺
位置
東漸寺は、靈桐山と號し、磯子區杉田町三十六番地にある。境内は二町三段九畝十五步。鎌倉建長寺の末、中本寺寺格一等地で、金澤觀音靈場の第三十番の札所である。
沿革
正安三年、北條宗長(前備前守。)の開基したもので、宏覺禪師を開祖とした。古へ當寺は關東十刹の官寺で、藏主・後掌・前堂の三役が修行を勤行した靈場で、十刹中の第七番目で在つた。寺領は百五十貫文で、境内は八町四方を占め、釋迦堂・法堂・方丈・開山堂・經堂・鐘樓堂・山門等の七堂伽藍を具備し、塔頭六箇院、末寺六箇寺を統べて居た。應仁の亂には、關東も亦、亂れて、常寺、又、兵燹に罹り伽藍・什寶等の悉くを灰燼に歸したが、兵亂の後に、建長寺の第百五十六世、以精嵩一和尙が、此靈場の衰退を惜み、自ら當寺に住して、荒廢の殿堂を縮造し、寺門典隆の基を開いたので、後世、以精嵩一和尙を以て中典の開山とする。德川氏に至つても、尙、古への由緖を以て官寺とし、更に下って寬文の頃は、塔頭眞樂庵住、久山和尙が、本堂の衰態を嘆じ、釋迦堂の修覆を加へて、舊觀の保護に努めたが、以來、幾度かの天災に遭つて、再び衰退に及び、加之、王政維新に際しては、官命に依つて無祿と為り、無住寺で維持困難な各塔頭は皆、之を廢し、末寺一箇寺のみを殘して、其他は他宗に轉じ、或は本寺に屬して、塔頭中の眞樂庵を當寺の本堂に充てるに至つた。隨つて各塔頭の檀徒は當寺に屬せしめ、此時に建長寺末派に附屬し、寺格を第二等地に列せられたが、明治十一年二月、隣火のために表門・裏門・觀音堂・辨天堂・天神社・稻荷社等の境内堂社を燒失し、僅に釋迦堂・開山堂・庫裡・鐘樓を殘すのみとなり、更に大正十二年九月一日の震災に罹つて、開山堂・庫裡を失ひ、釋迦堂を存するのみとなつたが、現住第五十四世玄瑞和尙は、再建を企畫し、昭和六年七月、本堂及び書院・庫裡の再建竣工を見た。寺傳に據れば。往昔の當寺は眞言宗の密場であつたとも云はれ、今に其頃の曼荼羅板を傳へ、又、其頃の墓石等をも存しては居るが、それが北條宗長の開基の以前までに、幾何の年代を歷て來たものであるかは詳かでない。今、當寺境内が東西二町、南北二町餘を劃するところから考へて見れば、古へは如何に大寺であつたかが、想像するに餘りありと云ふ可きで、口碑に據れば、往古の當寺は隣村の中原村の字、桐ヶ谷に在ったと云ひ、又、同所に大靈權現社があつて、當寺の鎭守であった為めに、大靈の靈宇と桐ヶ谷の桐字を採つて、靈桐山と號したとも言傳へては居るが、何等の證すべき記錄・文書とては無いのである。尙、當寺に存する記錄を後段に揭げて、參照とした。
本尊 
本尊は釋迦如來の木坐像、長約三尺、傳に運慶作とある。脇士は、阿難尊者と迦葉尊者とで、各、長三尺、これも運慶作と云はれてゐる。
堂宇
本堂。桁行六間、梁閒五間、向拜附、破風造、銅葺。書院。桁行四間、梁閒五間、亞沿葺。
庫裡。桁行六間半、梁間三間半、亞沿葺。昭和五年十二月三日起工、同六年七月十三日竣工、現住の再建。
釋迦堂。桁行五間、梁間六間、四注造、草葺、本堂兼用。建築年代不詳。寛文年中、眞樂庵第十二世久山和尙が修復を加へ、享保年閒、同庵第十七世月潭寶公座元禪師が、更に修復し、明治四十二年、現住第五十四世玄瑞和尙が、更に大修覆を加へたが、大正十二年九月一日の震災に大破したので、また修覆した。
開山堂。 大正十二年の震災に倒壞した。元は花園天皇宸筆、宏覺禪師開山直筆、見性の扁を掲げてあつた。庫裡。建坪十五坪、亞沿葺、假建築。山門。桁行九尺、梁間九尺、亞沿葺。
鐘樓。桁行九尺、梁間九尺、草葺。永仁六年の鐘を懸けてある。鐘銘は後條に擧げた當寺記錄の中を參照されたい。
境内佛堂
境内佛堂は、左の如くである。
地藏堂。桁行九尺、梁間九尺、亞沿葺。昭和二年、第五十四世玄端代再建。本尊は地藏菩薩の石造丈一尺。緣日は每月四日である。此像、もとは魔滅塚と呼ぶ地にあつたを、今から九十年前、塔頭正體院の舊地に移し、後、村民小林某、其邸に勸請したのであつたが、近年に至り緣故を以て當山へ返したとの事である。當山鎭守堂。桁行九尺、梁間九尺、瓦葺。大正十年、第五十四世玄端代再建。本尊は福德辨財天の木坐像、長八寸、作は不詳である。傳說に據れば、古へは關東三辨天の一で。江ノ島辨天・東京不忍池辨天と同木同作であると云はれてゐたが、いつの頃か火災に燒失し、其後、新に造立したものと云ふ。緣日は六月十日。
檀家
檀家は百五十戸。
住職歷代
開山勅諡宏覺禪師。大覺禪師嗣法。嘉元四年十二月六日寂。
第二世玉翁瑩和尙。嗣法宏覺禪師。元德二年十一月十日寂。
第三世象先文岑大和尙。淡路國入。嗣法宏覺禪師。多福院開祖也。康永元年十月八日寂。
第四世中岩和尙。貞和二年正月二十七日寂。
第五世、桂庭和尙。多福院二世。觀應二年三月八日寂。
第六世勅諡妙覺禪師象外禪鑑大和尙。眞樂庵開祖。文和四年十一月十八日寂。
第七世中溪正和尙。眞樂庵二世。又、多福院住。延文三年三月十五日寂。
第八世友堂和尙。貞治二年五月三日寂。
第九世勅諡廣覺禪師大拙巧大和尙。保福院開祖。永和二年六月五日寂。
第十世大茂材和尙。嗣法衆外禪師。眞樂庵三世。永和四年二月八日寂。
第十一世光室印公座元。多福院三世。森村篁修庵開祖。永德元年九月三日寂。
第十二世悅山文怡和尙。嗣法象先禪師。多福院四世。至德三年十月十三日寂。
第十三世桂峰昌和尙。眞樂庵四世。康應元年三月三日寂。第十四世中石家和尙。眞樂庵五世。應永元年、四月二十六日寂。第十五世仲山甫和尙。嗣法象先。多福院五世。後鎌倉東勝寺住。應永元年三月七日寂。
第十六世東震見照和尙。直傳庵開祖。應永十八年六月三日寂。
第十七世岳宗林和尙。嗣法象先禪師。多福院六世。應永十九年十一月二十八日寂。
第十八世東岳文昱和尙。嗣法廣覺禪師。成願院初祖。應永二十三年五月二十九日寂。
第十九世雲溪龍公座元。多福院七世森村林香院開祖。應永二十三年七月二十日寂。
第二十世雲岳場和尙。眞樂庵六世。多福院八世。永享七年七月二十五日寂。壽六十九。
第二十一世實堂誠和尙。嗣法仲山甫、象先岑の孫徒。多福院九世。常慶庵開祖。正長元年五月十一日寂。壽六十一。
第二十二世天造受和尙。建長寺退隱後、多福院住歟。嘉吉三年七月六日寂。
第二十三世南宗禪能和尙。嗣法象外禪師。眞樂庵七世不詳。建長寺七十八世。長祿二年六月七日寂。
第二十四世中興精嵩一和尙。嗣法東岳禪師。建長百五十六世。退隱後當山に住、詩堂修營。文明二年八月二十四日寂。
第二十五世李英俊和尙。眞樂庵八世。延德二年四月十五日寂。
第二十六世源宗西堂和尙。文明十六年七月十二日寂。
第二十七世鶴慶算和尙。眞樂庵九世。永正十六年五月二十九日寂。
第二十八世大樹和尙。建長寺退隱の後當山住歟。大永元年十月四日寂。
第二十九世嶺松倚公座元。當山假住奉公職の權與。多福院九世。永祿四年四月十二日寂。
第三十世宗芳臻公座元。眞樂庵十世。慶長三年九月十日寂。
第三十一世文哉郁公座元。多福院十世。慶長六年七月三日寂。
第三十二世宗覺派公座元。多福院十一世。慶長十二年四月八日寂。
第三十三世通峰園公座元。多福院十二世。慶長四年十一月十二日寂。
第三十四世雲堂祖公座元。眞樂庵十一世。承應三年十月十三日寂。
第三十五世太用郁公座元。多福院十三世。寛文九年正月二十三日寂。
第三十六世太雲澤公座元。多福院第十四世。元祿元年十二月十九寂。
第三十七世當山中興久山碩要座元。上州前橋產。那波郡泉龍寺奇雲碩祥嗣法。眞樂庵十二世。當山住持の際、建長寺と本末爭議ありて、南禪寺に轉位す。元祿七年十月十九日寂。
第三十八世乾外貞公座元。多福院十五世。寶永六年六月十三日寂。
第三十九世一玄要公座元。眞樂庵十三世。寶永八年四月五日寂。
第四十世松堂桂公座元。多福院十六世。享保十二年九月十二日寂。
第四十一世金牛奉公座元。多福院十七世。享保十三年二月四日寂。
第四十二世乾室泰公座元。眞樂庵五世。享保十七年十月二十日寂。
第四十三世渇堂玖公座元。眞樂庵十四世。寛延二年十一月二十八日寂。
第四十四世大安定公座元。眞樂庵十六世。寛延四年四月五日寂。
第四十五世月潭寶公座元。眞樂庵十七世。寶曆十年正月十六日寂。
第四十六世普山通公西堂。多福院十八世。安永八年十一月二十八日寂。
第四十七世補道佐公座元。眞樂庵十八世。文化元年正月十日寂。
第四十八世月潮旦公座元。多福院十九世。文化十二年八月二十日寂。
第四十九世賢嶺剛公座元。眞樂庵十九世。文政九年八月十八日寂。
第五十世昌岳愼大和尙。多福院二十世。嘉永七年正月二日寂。
第五十一世達堂源公座元。多福院二十一世。明治十四年五月九日寂。
第五十二世雄峰大公座元。宮城縣松島端巖寺住職旭元禪師。文久二年六月、當山に退隱、堂宇を新建す。明治三十五年七月、當山無住の節來住。眞樂庵二十二世。明治四十五年一月八日寂。
第五十三世德勸文越大和尙。當村の人深野氏。達堂の門。建長寺派管長の徒弟に屬す。寺格を進めて同派客末派となつた。明治三十二年十二月十三日寂。
第五十四世祥堂玄端和尙。現住。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

横浜市教育委員会掲示による霊桐山東漸寺の縁起

当山は、霊桐山と号す臨済宗建長寺派の寺院です。埋立・開発前は、東京湾に面した東向の寺で、釋迦堂から総門を通して海浜を見通せ、斜め後方に屏風浦の連なる崖が見渡せました。この景勝は鎌倉時代、多くの鎌倉五山の禅僧の偈頌に謳われ、東漸寺詩板(2枚)に残されています。
釈迦堂(県重要文化財)は、梁牌により正安3年(1301)に円覚寺の永仁再興に当った桃渓徳悟が、北条義時の次子名越朝時の曽孫宗長を大檀那として建立しました。禅宗様方三間裳階付仏殿で、創建年代の明確なものでは日本最古の建造物です。
梵鐘(国重要文化財)は、銘文によると永仁6年(1298)当時に住んでいた僧了欽が序文および銘をつくり、当時の名工物部国光につくらせました。称名寺(金沢区)の梵鐘と同形・同法量です。
五輪塔(県重要文化財)は、鎌倉時代(13世紀後期~14世紀初期)の作です。凝灰岩製で三基あります。(横浜市教育委員会掲示より)


東漸寺所蔵の文化財

  • 梵鐘(国重要文化財)
  • 釈迦堂(県重要文化財)
  • 五輪塔(県重要文化財)
  • 木造伽藍神倚像一躯(横浜市指定有形文化財)
  • 木造達磨大師坐像一躯(横浜市指定有形文化財)

木造伽藍神倚像一躯

伽藍神は土地神とも呼ばれ、寺院の建物を守る神として中国で信仰が育ち、わが国では鎌倉時代以降、主に禅宗が尊び、像を土地堂に祀ることが広く行われました。
この像は高い冠をかぶり、厚い衣裳を着て坐っています。像のなかの墨書の銘文から、応永二年(一三九五)に院覚という仏師が作ったことがわかります。彫刻の技法はやや形式化していますが、作られた時期や作者が明確な資料的価値の高い作品で、室町時代初期の作風をよく伝えています。(横浜市教育委員会掲示より)

木造達磨大師坐像一躯

この像は両手を法衣で覆い、頭巾をかぶっています。像のなかの墨書の銘文から、応永二年(一三九五)に院覚という仏師が作ったことがわかります。
禅宗の始祖である達磨大師の彫像は横浜市内にも少なくありませんが、造立時期と作者の明確な中世の作品は珍しく、資料的価値が極めて高い佳作で、室町時代初期の作風をよく伝えています。(横浜市教育委員会掲示より)

東漸寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿