東方山薬王寺。東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場
薬王寺の概要
浄土宗寺院の薬王寺は、東方山濟生院と号します。薬王寺は、行基菩薩が東大寺に奉納した薬師如来像を源頼朝が鎌倉に奉安、新田義貞による鎌倉攻略の戦火を逃れて当地矢部野村に元弘3年(1333)奉安創建したといいます。東漸寺第二十世鶴慶等大和尚(永正16年1519年寂)が開山、元禄時代に入ってから、深川霊厳寺の沙門梅山が浄土宗に改めて再中興したといいます。当寺の薬師如来像は、永禄年間(1558-1570)に水田の中から掘り出されたことから掘り出された地を田中村と称するようになったといいます。東国八十八ヵ所霊場49番、横浜觀音三十三観世音霊場23番です。
山号 | 東方山 |
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院号 | 濟生院 |
寺号 | 薬王寺 |
住所 | 横浜市磯子区洋光台3-12-3 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
薬王寺の縁起
薬王寺は、行基菩薩が東大寺に奉納した薬師如来像を源頼朝が鎌倉に奉安、新田義貞による鎌倉攻略の戦火を逃れて当地矢部野村に元弘3年(1333)奉安創建したといいます。東漸寺第二十世鶴慶等大和尚(永正16年1519年寂)が開山、元禄時代に入ってから、深川霊厳寺の沙門梅山が浄土宗に改めて再中興したといいます。当寺の薬師如来像は、永禄年間(1558-1570)に水田の中から掘り出されたことから掘り出された地を田中村と称するようになったといいます。
新編武蔵風土記稿による薬王寺の縁起
(田中村)薬王寺
除地、二畝、北寄の山上にあり、浄土宗、江戸深川靈嚴寺末、東方山濟生院と號す、本堂五間半に六間餘、本尊薬師は立像にて長三尺二寸、行基菩薩の作、縁起に據に此像永禄の頃里人宇田川氏當所字菱田と云へる水田中より掘得しものなり、像肩に其時の鍬疵ありと云。
稲荷社。
千本松。堂に向ひて左方にあり、圍三尺許、中幹より幾條となく四方に分れ叢生して蕃茂せる故に此名あり、中古植たるものなりと云。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による薬王寺の縁起
薬王寺
位置
薬王寺は、東方山濟生院と號し、磯子區田中町八十六番地にある。境内は三畝二十四歩。東京市深川區霊巌寺の末寺で、寺格は平僧二等である。
沿革
創立の年代は詳でない。開山は杉田町臨濟宗東漸寺第二十世鶴慶算和尙である。元祿の頃、浄土宗に改めた。卽ち東漸寺古記録に、「薬王寺ハ、當山ノ末派ナリ。寺ノ開基ハ間宮氏隱居雄山ト云。逝去ノ時、當山ヨリ 諷經ニハ病氣ニテ不出頭ニ付、嚫全ノ到來ナキ事ヲ以テ、其ノ兵左衛門ト申者、腹立ノ上、淨土宗ニ改シ、云々。」又同寺開山堂及び末寺の由緒書に「薬王寺同郡田中村にあり。開祖鶴慶算大和尙、當寺廿七世なり。眞樂庵九世にして、永正十六年五月廿九寂す。元祿年間の頃より田中に於て淨土宗に相成る、云々。」とある。又當寺奥の院に安置する田中出現朝日藥師の略縁起には、永祿の頃、當所の人宇田川某、田中より藥師像を掘出し、是れ藥師有緣の地なればとて、一宇を造營し、朝日來迎の刻の出現に係るを以て、東方山と名付け、群生濟度の徳を讃めて、濟生院と稱したとある。古來無檀少祿の一艸堂に過ぎなかつた爲め、殆ど無住で、沿革等も明かでない。下つて嘉永の頃、宗阿なる僧が來つて、堂宇の頽廢したを修造した。宗阿の歿後、再び無住荒廢に歸し、大正十二年九月一日の震災に倒潰したが、信徒の淨施を以て、翌十三年、再建を遂げた。
本尊
本尊は藥師如来坐像、長二尺六寸五分で、傳に承和三辰年十二月、慈覺大師一刀三禮の作と云はれてゐる。脇士二尊の立像は各〻長五尺五寸、是れも同作と云はれる。又奥の院本尊、田中日現朝日薬師立像は長三尺三寸、傳行基作と云はれる。藥王寺本尊略緣起及び朝日藥師如来略緣起なるもの有るが、あまりに長文であるから茲には載せぬ。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行五間、梁間六間半、草葺、向拜附、四注造。・庫裡桁行三間半、梁間三間半、草葺。・廊下 桁行二間、梁間一間、杉皮葺。である。
檀家
檀家なく、信徒講中に依つて維持されてゐる。
住職歷代
不明。
境内社
稻荷社。桁行一間、梁間三尺。
雜載
境内に千年松と稱する老松が一樹あつたが、枯死して今は根幹のみを殘存
して居る。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
境内掲示による薬王寺の縁起
薬王寺の開創は、鎌倉末期の元弘三年(一三三三年)この地、矢部野村に建立されたと伝えられ、鶴慶等大和尚(永正一六年入寂)が中興開山となった後、元禄の世、武州・深川・霊岸寺の沙門・梅山が再び中興を発願して浄土宗に改宗した。その後、明治初期より港南・正覚寺の末寺となって現在に至り、平成六年五月に本堂が再建された。
当山の本尊は、「薬師三尊」と呼ばれる薬師如来(慈覚大師作)と日光・月光菩薩及び守護神の十二神将を中心に奉じ、その「奥の院」は、古来より『鉈彫・朝日薬師』と呼び称された薬師如来(行基作)であり、さらには、阿弥陀如来、地蔵菩薩、愛染明王、善導・法然両大師が奉られている。
当山所蔵の『薬王寺奥之院朝日薬師如来略縁起』によれば、奈良朝・七三〇年頃、全国に疫病が蔓延し、聖武天皇から懇願された行基は、難病平癒祈願の最中、東方に輝く朝日の中から薬師如来の真形を観じ、霊水から三尺二寸の立像を刻み、奈良大仏・東大寺に奉じて祈願したところ発願が叶ったという。その後、建久六年(一一九五年)病を罹った源頼朝が奈良大仏殿の再建落慶法要に際し、朝日薬師に祈願して平癒した。その霊験を得たため妻・政子に命じ、お薬師を鎌倉にお迎えした。ところが、元弘三年(一三三三年)の新田義貞による鎌倉攻略の戦火を逃れ、矢部野村の元薬師山の薬師面(現在の洋光台北公園)に安置された。時下り、幾多の難儀に出合って田中村に奉じられたが、再び開創の地である矢部野に戻り、漸く念願叶って当山に奉安された。
「本尊薬師如来略縁起」によると、天台宗開祖・伝教大師の弟子・円仁(慈覚大師)が常和三年(八三六年)に遣唐使となって入唐する際、念持仏として二尺六寸五分の薬師如来座像を刻んだ。留学中、様々な災難に出合っても救われて仏法の奥義を会得する大願が成就できたという。その後、円仁と行と共にしたお薬師像は、元亀二年(一五七一年)に織田信長の比叡山・延暦寺攻めを逃れ、伊勢(岡本城主・奥田氏所蔵)から海を渡って、武州・深川・霊岸寺(浄土宗)の沙門・梅山が自ら背負い当山の本尊として奉安し、現在に至っている。(境内掲示より)
薬王寺所蔵の文化財
- 木造薬師如来立像(横浜市指定有形文化財)
木造毘沙門天立像
樟の一木造りで、全体が一材から彫り出され、薬壺は腹部正面で左手に載せています。表面は素地のままですが、目の輪郭と瞳は墨で描かれ、頭髪部に墨塗り、白眼・面部・胸部に白っぽい彩色の痕跡が認められます。
『新編武蔵風土記稿』の田中村薬王寺の項には、本像が永禄年間(一五五八~一五七〇)に水田の中から出土したという記録があります。この伝承を確かめるすべはありませんが、像全体にひび割れ、虫食い等傷みがいちじるしく、特に右肩部の傷みのはげしさは、出土した時の鍬傷があったという伝承をうかがわせるものがあります。また、この「田中出現」が「田中」の地名の由来となったともいわれています。
素朴な表現の地方作ですが、なだらかな肉どりや優しい表情から平安時代後期、十二世紀頃の作品と考えられ、地域の歴史にもかかわる像として貴重な遺品です。(横浜市教育委員会掲示より)
薬王寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿