洲崎大神|旧郷社、源頼朝創建
洲崎大神の概要
洲崎大神は、横浜市神奈川区青木町にある神社です。洲崎大神は源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社(註:洲崎神社ではないか)の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられます。明治16年郷社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。
社号 | 洲崎大神 |
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祭神 | 天太玉命、天比理刀売命 |
相殿 | 素盞男命、大山咋命 |
境内社 | 稲荷社 |
住所 | 横浜市神奈川区青木町5-29 |
祭日 | 例大祭6月6日以降の金・土・日曜日 |
備考 | - |
洲崎大神の由緒
洲崎大神は源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社(註:洲崎神社ではないか)の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられます。明治16年郷社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。
新編武蔵風土記稿による洲崎大神の由緒
(神奈川宿京の町)洲崎明神社
海道の西北の側にて社地は山の上なり。社は1間半四方、拝殿4間半に2間、前に石階ありて、その下に石の鳥居をたつ。海道をさつこと13間余。当社はこの邊の鎮守にて甚古き社なり。勧請の年暦は詳ならざれど、応永年中の鐘の銘あり。これその證なり。されど今此社には鐘も傳へざれど、他の書にのする所を以て左に出せり。例祭は年々6月25日より27日まで行はる。神主を吉田出羽と云、社の右の方に住めり。別当は普門寺なり。
(中略)
末社。
稲荷社、随身宮、秋葉社、神明社、稲荷社。右何れも本社に向て右にあり。共に小祠なり。
稲荷社二ヶ所、本社の左にあり。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」による洲崎大神の由緒
社記に、建久二年六月二十六日、源頼朝の創建で安房国安房郡安房神社の分霊を勧請したとあって、洲崎大神と呼称するとある。創建以来、鎌倉幕府の直轄を受けて式年には神職に烏帽子、狩衣を親子の分二着づつを賜はったといわれている。
社殿の建築は、創建当初の規模構造で様式を改めたことがないといわれている。
明治維新までは洲崎山普門寺が別当を務めたが、明治元年三月一二日神仏混合禁止の布令によって神職が奉祀することになった。
同年一〇月一一日明治天皇が東京入城にあたり神奈川本陣に御宿泊の折り、当社に内侍所奉安殿を造営された。翌二年五月二〇日、該建物を当社に下賜せられたので、聖蹟記念に保存し、のち本殿新築にあたり、霊代奉安所としたが、明治八年四月二日、類焼のため焼失した。
明治一六年八月二四日郷社に列せられた。明治四〇年四月三〇日神饌幣帛料供進社に指定された。
大正一二年九月一日の関東大震災により、社殿悉くを焼失したので、御下賜材を頂き仮殿の造営をとげた。
大正一四年三月十日再興の起工が行なわれ、昭和五年六月新殿の竣工がなった。(「神奈川区史」より)
「神奈川県神社誌」による洲崎大神の由緒
当社は建久二年(一一九一)六月二十六日源頼朝安房国元官幣大社安房神社の分霊をこの地に勧請し、鎌倉幕府直轄の神社として創建せられた。明治元年十一月十九日車駕当駅に御駐輩の砌当社境内に内侍所奉安殿を造営あらせられた光輝を有し、同十六年八月郷社に列せられ、同四十年神饌幣帛料供進社に指定された。(「神奈川県神社誌」より)
「神奈川区宿歴史の道」掲示による洲崎大神の由緒
洲崎大神は、建久2年(1191)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)
洲崎大神の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「神奈川県神社誌」