洲崎神社|館山市洲崎の神社

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洲崎神社|名神大社后神天比理乃咩命神社

洲崎神社の概要

洲崎神社は、館山市洲崎にある神社です。洲洲崎神社は、(安房神社を創建した)天富命が、御祖母神天比理乃咩命が奉持していた御神鏡を神霊として創祀されたと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている名神大社「后神天比理乃咩命神社」に比定されています(当社を拝殿として一宮、洲宮神社を奥殿として二宮)。源頼朝が深く尊崇、横浜市に当社を勧請して洲崎大神を創建したと伝えられる他、太田道灌は当社を勧請して神田神社を創建したとも伝えられ、江戸幕府からも御朱印状を受領、明治維新後の明治6年には県社に列格していました。浜の鳥居から富士山が望める景勝地です。

洲崎神社
洲崎神社の概要
社号 洲崎神社
祭神 天比理乃咩命
相殿 -
境内社 稲荷神社、琴平宮、長宮
例祭日 例大祭8月20・21日、2月初午日
住所 館山市洲崎1697
備考 旧県社、延喜式神名帳名神大社



洲崎神社の由緒

洲崎神社は、(安房神社を創建した)天富命が、御祖母神天比理乃咩命が奉持していた御神鏡を神霊として創祀されたと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている名神大社「后神天比理乃咩命神社」に比定されています(当社を拝殿として一宮、洲宮神社を奥殿として二宮)。源頼朝が深く尊崇、横浜市に当社を勧請して洲崎大神を創建したと伝えられる他、太田道灌は当社を勧請して神田神社を創建したとも伝えられ、江戸幕府からも御朱印状を受領、明治維新後の明治6年には県社に列格していました。

境内石碑による洲崎神社の由緒

式内大社洲崎神社
祭神天比理乃咩命
当社は延喜式神名帳に「后神天比理乃咩命神社大元洲名神」と記され、天太玉命の后神を祀る式内大社で、元の名を洲神と称した。
由緒
当社は宝暦三年(一七五三)の「洲崎大明神由緒旧記」によると、神武天皇の御宇、天富命が御祖母神天比理乃咩命の奉持された御神鏡を神霊として、洲辺の美多良洲山に祀られたことに始まる。
鎌倉時代の治承四年(一一八〇)安房に逃がれた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として明神の分霊を勧請したと伝えている。房総里見氏も当社を尊崇して、七代義弘が神領五石を寄進し、江戸幕府もこれに倣って朱印状を下した。幕末の文化九年(一八一二)房総沿岸警備を巡視した老中松平定信は「安房国一宮洲崎大明神」の扁額を奉納している。
神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇戦勝祈願の功により勲二等に叙せられ、明治六年(一八七三)県社に列せられた。往時、別当寺は養老寺など五ヶ寺を数えた。洲崎明神は古来伝承されている数々のあたらかな霊験から、安産、航海安全、豊漁、五穀豊穣や厄除開運の守護神として信仰が厚く、現在に及んでいる。(境内石碑より)

「千葉県神社名鑑」による洲崎神社の由緒

延喜式内大社。安房国一宮。明治六年五月三〇日県社に列格。神武天皇の御宇、天富命が祖神天太玉命、天比理刀咩命を鎮祭なされたのを以て創立起源とする。承和九年神階従五位下を叙せられて以来累進し、永保元年二月一〇日正一位の極位に叙せられる。鎌倉源家の崇敬特に篤かった事は『吾妻鏡』の随所に見られる。徳川家もまた七石の朱印領を寄せられた。文化九年六月一二日領主松平越中守から『安房国一宮洲崎大明神』の額面を奉納される。
八月二一日の例祭に「神幸祭(お浜出)」と「みのこ踊り」(国の選択重要無形文化財)を執行する。(「千葉県神社名鑑」より)

「稿本千葉縣史」による洲崎神社の由緒

洲崎神社
同郡(安房郡)西岬村大字洲崎御手洗山に在り、境内四百七坪、祭神は洲宮神社と同神にして傳説亦同じ。明治六年四月教部省本社を以て延喜式載する所の大社と定む、比理乃咩神社の史に見えたるは承和九年十月二して始めて從五位下を授けられ仁壽元年八月從三位貞観元年正月七日正三位を加へらる。源賴朝深く本社を崇敬し治承四年九月神田を寄す、壽永元年八月安西三郎をして本社に参向せしめ室政子の安産を祈る。後太田道灌の江戸城を築くや本社を江戸に勧請す、神田明神是なりと云ふ。里見氏の時社領五石を寄す、徳川氏の時亦之に仍る。文化九年松平定信社額を書して奉納す、現に神庫に蔵せり。明治六年五月三十日縣社に列せらる。本社は古来海口にあるを以て舟人皆船神と爲し、社前を過ぐる毎に洗米を献ず、祠官毎に舟を出して之を受けしめ以て神饌に供するを例とす。祭日は八月二十一日、境内に末社五座あり、舊縁起二部今舊里正綿鍋氏の家に傳はる。(明治三十九年幣帛料供進指定)(「稿本千葉縣史」より)


洲崎神社所蔵の文化財

  • 洲崎踊り(国登録無形民俗文化財)
  • 洲崎神社本殿(千葉県指定有形文化財)
  • 洲崎神社自然林(千葉県指定天然記念物)
  • 養老元年・万治二年・宝暦三年の各縁起(市指定有形文化財)
  • 御神体髪(市指定有形文化財)

洲崎踊り

毎年、2月の初午と8月20~22日の神社例祭に奉納されます。「みろく踊り」と「かしま踊り」の2種類からなり、地元ではこれらを「みのこ踊り」と呼んでいます。
踊り手は、基本的には小学生から中学生まで女子が中心ですが、近年は児童の減少から成人の女性が交じっています。オンドトリと呼ばれる1名の太鼓役と2名の歌役が中央に座り、その回りをお降りてたちが円形に取り巻き、太鼓と歌にあわせて踊ります。
手に持って舞う採物は、「みろく踊り」では、左にオンベ(長柄の御幣)を肩に担ぎ、右に扇を持ちます。「かしま踊り」では、扇のみを使います。初午の時に使うオンベと例祭のオンベは異なり、初午では、青竹にサカキと五色の幣束をつけたもの、例祭の時には、白い幣束と鏡をつけたものを使用します。
このふたつの踊りは、いずれも海の安全を司る鹿島の神に関係しています。「かしま踊り」は、鹿島の神人が一年の豊凶を告げ歩く「事触れ」に由来するもので、悪霊払いを目的としています。一方「みろく踊り」は、世直しを願う念仏踊りの系譜にあたり、弥勒がが遠い海の彼方から訪れ、富や豊作をもたらすという内容になっています。
「みのこ踊り」は、安房地方南部の洲崎と波佐間、南房総市千倉町川口の3カ所に伝わっているほか、関連する芸能が千葉県内にいくつか見られます。
「かしま踊り」そのものは、相模湾西岸(神奈川県小田原市から静岡県賀茂郡東伊豆町)にも分布していますが、安房地方の「みのこ踊り」と比べると、歌詞や採物などに共通点がある一方で、相模湾西岸は男性の踊り、安房地方は基本的には女児の踊りと違いがあります。
また、相模湾西岸の「かしま踊り」には方形の隊形で演じる場面があるため、踊りに参加する人数に限りがありますが、安房地方の「みのこ踊り」は円形の踊りのみであり、踊りの人数に制限はありません。
10人前後の少女が輪になって、大人の歌や太鼓などの演奏に合わせて踊る民俗芸能であることが、洲崎踊りをはじめとする安房地方の「みのこ踊り」の特色といえます。(館山市教育委員会掲示より)

洲崎神社本殿

屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流れを延長して 向拝屋根としたいわゆる三間社流れ造りで、柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは、珍しい点といえます。
社伝では延宝年間(1673~81)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、支輪や虹梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、その後に大規模な修理が加えられていることがわかります。
しかし本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。とくに背面の竹に虎を配した彫物のある本蟇股は、江尾時代初期の寛永年間(1624~44)頃の様式に従っているもので、延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています。(館山市教育委員会掲示より)

洲崎神社自然林

洲崎神社裏の御手洗山の西側斜面は、神域として氏子の信仰が厚いため伐採されることがなく、自然林として保たれてきました。
この林が、シイが上木として目立つ下半部と、ヒメユズリハが上木として目立つ上半部にわかれています。
下半部では上の方から、第1層にスダジイが、第2層にヤブニッケイ、ヤブツバキが、第3層にトベラ、イヌビワが、第4層にテイカカヅラ、ヤブコウジなどが優位に生えていて、スダジイの極相林のかたちを保っています。極相林とは、気候などの生育条件のなかで自然のままに成長し、行き着いた林のことで、環境条件に適合した安定状態の植物群落のことをいいます。
上半部では、ヒメユズリハが優位に生えており、おおまかにススキ草原からクロマツ林、そしてヒメユズリハ林からスダジイ林という林の変遷過程をみることがえきます。(館山市教育委員会掲示より)

洲崎神社の周辺図


参考資料

  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「稿本千葉縣史」

関連ページ

  • 品川神社(品川区)
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  • 洲崎大神(横浜市)
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  • 神田神社(千代田区)
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  • 安房神社(館山市)
    祭神天太玉命、安房国一宮
  • 洲宮神社(館山市)
    天比理乃咩命神社の奥殿