洲崎山普門寺。鎮海権僧都創建、イギリス士官の宿舎、東国八十八ヵ所霊場
普門寺の概要
真言宗智山派寺院の普門寺は、洲崎山と号します。鎮海権僧都(文治3年1187年寂)が開山となり創建したといいます。開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられたと言います。東国八十八ヵ所霊場21番です。
山号 | 洲崎山 |
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院号 | - |
寺号 | 普門寺 |
住所 | 横浜市神奈川区青木町3-18 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 洲崎大神、大綱金刀比羅神社のもと別当寺 |
普門寺の縁起
普門寺は、鎮海権僧都(文治3年1187年寂)が開山となり創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による普門寺の縁起
普門寺
同並にあり。新義真言宗宿の内金蔵院末。洲崎山と号す。開山鎮海文治3年9月12日寂す。本尊大日坐像にして8寸許。又洲崎明神の本地佛の観音あり。今はそこねて首ばかり残れり。前立の像長8寸許なるをも安ぜり。客殿7間に5間半南向なり。
不動堂、門を入て右の方にあり。3間四方不動は坐像にして長9寸許。(新編武蔵風土記稿より)
「神奈川区史」掲示による普門寺の縁起
洲崎明神の別当寺であったので洲崎山といい、寺号は明神本地仏観世音を安置したことからという。
大正一二年九月一日の大震災に罹災して以来焦土となって仮堂を建立したが、本寺の金剛院が全てを兼務して今日に至っている。(「神奈川区史」より)
「横浜市史稿」掲示による普門寺の縁起
普門寺
位置及寺格
普門寺は、洲崎山功德院と號し、神奈川區靑木町幸ヶ谷三百七十八番地にある。境内は三百三十三坪。金蔵院の末、寺格十一等である。
沿革
鎭海權僧都の開基である。僧都は、文治三年九月十二日入寂とあるから、創立の年代は、今から約七百五十年以前であつたと知られる。山號は洲崎明神の別當寺たる關係によつて起り、寺號は同明神の本地佛觀世音を安置した事によつて名づけたと云ふ。寬政八年、本寺で開板した飯綱權現略緣起には、「文治年中、此地の山上に社を御建立なされ、麓に一院を造立ありて、山を萬年山と號し、寺は普く參詣の諸人、門に入るを司り給ひ、普門寺と名付く云々。」とあるが、同社の創立は、寬永八年であるから、此緣起には重きを置き難い。文政の頃は、本尊、高八寸許の大日の坐像を立て、本地佛は損じで首ばかりを存し、前立に觀音の像、長八寸許なるを安置し、脇檀には弘法大師・弘行大師及び前住法印の影像を置き、七閒に五閒牛、南向の客毆を有し、門を入つて右の方に三閒四方の不動堂をそなへ、長九寸許の不動の坐像を安置してあつたといふ。開港の當時は、英國士官の假寓に充てられた。大正十二年九月一日の大震火災に罹つて焦土となり、未だ舊觀に復しない。
本尊
今の本尊は、聖觀世音菩薩、背面に「普門寺、本尊白檀聖觀自在曾像、宮殿共功德主、榮松院、喜山壽峰上座」の銘がある。(「横浜市史稿」より)
「神奈川区宿歴史の道」掲示掲示による普門寺の縁起
普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことにより起こった。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。
江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)
普門寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「神奈川区史」
- 「横浜市史稿」