青木山本覺寺。横浜市神奈川区高島台にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

青木山本覺寺。アメリカ領事館、横浜三十三観世音霊場、旧小机領三十三所子歳観音霊場

本覺寺の概要

曹洞宗寺院の本覺寺は、青木山延命院と号します。本覺寺は、千光国師栄西禅師が嘉禄2年(1226年)に創建したと伝えられる古寺です。雲松院第三世陽廣元吉が当寺住職となっていた天文元年(1532)曹洞宗に宗旨を改めたといいます。江戸末期の横浜開港時にはアメリカ領事館となっていました。横浜三十三観世音霊場14番、旧小机領三十三所子歳観音霊場7番です。

本覺寺
本覺寺の概要
山号 青木山
院号 延命院
寺号 本覺寺
住所 横浜市神奈川区高島台1-2
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 本覚寺斎場
備考 -



本覺寺の縁起

本覺寺は、千光国師栄西禅師が嘉禄2年(1226年)に創建したと伝えられる古寺です。雲松院第三世陽廣元吉が当寺住職となっていた天文元年(1532)曹洞宗に宗旨を改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による本覺寺の縁起

(神奈川宿七軒町)本覺寺
西側にあり。海道より少し引いりて石階あり。そこを上りて山の上なり。曹洞宗小机村雲松院の末、青木山延命院と号す。千光国師栄西嘉禄2年草創の道場なり。其頃は臨済宗にて京都建仁寺末派なり。按ずるに栄西は建保3年(注:1215年)寂せし人なれば、全く勧請の開山なるべし。其後天文元年雲松院第三世陽廣元吉当寺に住せし時曹洞宗に改めしと云。本尊地蔵は行基の作坐像長1尺8寸、諸記録にも本覺寺の地蔵堂などと記して、古くより世に聞えありし本尊なり。客殿8間半に7間半。門は両柱の間1丈共に南向なり。裏門は東の方にありて、門外は陸田うちひらけし地なり。此門内に石地蔵たてり。当寺昔の権現山の砦のあとなりと云。又寺の後の方にも今城跡と云所あり。永正7年上田蔵人入道が当所権現山に砦をかまへ、あたり近き本覺寺の地蔵堂をとりこみて要害とせしなどいへること、古戦の記にも見ゆるはさもあるべく覚ゆ。猶古跡の條合せ見るべし。
衆寮
表門を入て左の方にあり。6間半に4間。観音の像を安置す。その像は、坐像にして長1尺8寸許作しらず。小机三十三所の一なりと云。
中門、柱間1丈。
地蔵堂、裏門の外左の方にあり。地蔵は銅像の立像にして台座とも8尺許あり。又右の方に黒焼の薬を開く店あり。ここにも地蔵の坐像あり。銅にて造れるものなり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による本覺寺の縁起

市内観音三十三か所の十四番霊場、小机札所三十三番の七番札所。
初めは臨済宗京都建仁寺の末流であった。永正七年(一五一〇)上田蔵人入道の権現山の戦火を被って荒廃してしまったが、天文元年(一五三二)小机の雲松院三世陽広元吉が当寺に住したので曹洞宗に改宗したという、依って陽広元吉を中興開山とした。
元禄の初年、火災によって堂宇悉く焼失した。享保年間第十世大定梁国は、本堂、庫裡を再建、銅鐘、地蔵菩薩銅像を造立し。門前に地蔵堂を建立した。
横浜が開港して三日目の安政六年六月四日午前十二時本覚寺境内にアメリカ領事館旗が高々と掲揚された。それから五年本覚寺は領事館として使用された。
幕末の頃まで宏大な境内を誇っていたが、その後、鉄道用地、道路拡張等によって境内は、せばめられていった。
明治三二年一二月一五日本堂、庫裡を焼失し、同三七年七月一日再建した。
同四一年僧堂の開堂を認可された。同四二年六月二〇日、原勝院栴操妙馨大姉が本堂を再建した。本堂の再建によって元の本堂を庫裡に改造した。大正一二年九月一日の関東大震災では本堂、鐘楼は倒壊した。同十五年六月仮本堂と鐘楼の再建を行い、昭和元年から横浜市復興計画に基く地区改正のため境内の一隅は収用された。
昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲にて堂宇の全ては焼失し、伝行基作といわれた本尊の地蔵菩蕯坐像も灰燼となった。
残った建造物は享保十三年頃建設した山門のみであった。山門の外側に寛政二庚戍歳八月吉日建立の「不許葷酒入山門」の碑がある。山門には「青木山」の扁額が掲げられてあって書は、「勅賜弘済慈徳禅師総持奕堂老納書」である。(「神奈川区史」より)

「神奈川区史」による本覺寺の縁起

本覺寺
位置
本覺寺は、靑木山延命院と號し、神奈川區靑木町臺町千七百六十八番地にある。境内は千二百二十一坪。小机町雲松院の末寺で、寺格は常恒會地特級。市内觀音三十三所の第十四番の靈場である。
沿革
嘉祿二年の草創で、千光國師榮西を勸請開山とする。初めは臨濟宗に屬し京都建仁寺の末派であつたが、永正七年、上田藏人入道の亂に、兵禍を被つて荒廢したので、天文元年、小机村雲松院の第三世陽廣元吉和尙が再興して、今の宗旨に改めた。依つて和尙を中興開山とする。元祿の初年、祝融の災に罹り、殿堂・門廡悉く燒失した。享保年間、第十世梁國和尙が本堂及び庫裡を再建した。天保の頃は、八間半に七間の客殿、六問半に四間の衆寮、及び庫裡・鐘樓・總門・中門・裏門を具備し、門外には地藏堂を置き、此所より黑藥を出したと云ふ。開港當時、堂宇を米國公使館に充てられた。幕末の頃は、境内除地五段八畝二十步、及び居山一町一段七畝二十四步を有して居たが、明治の初年に、境内の一角を鐵道用地に收用せられた。明治三十二年十二月十五日、本堂及び庫裡を燒失し、同三十七年七月一日、之を再建 本堂・庫裡造り込み、桁行十八間八分、梁間九間八分二厘五。した。同四十一年、僧堂の開堂を認可された。同四十二年六月二十日、原勝院栴操妙馨大姉を中興開基として、本堂を再建し、元の本堂は位置を移して、庫裡に改造した。大正十二年九月一日、大震災に罹り、本堂及び鐘樓等倒潰した。同十五年六月、假本堂及び鐘樓の再建を遂げた。昭和元年、市區改正、街路擴張の爲め、境内の一隅を收用せられたので、境内を整理し、庫裡の移動を行つた。
本尊
本尊は地藏堂菩薩坐像、高一尺八寸、傳、行基菩薩の作。(「神奈川区史」より)


本覺寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」