薬王寺。横浜市金沢区寺前にある真言宗御室派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

三療山薬王寺。源範頼の別邸地、東国八十八ヵ所霊場

薬王寺の概要

真言宗御室派寺院の薬王寺は、三療山薬王院と号します。薬王寺の創建年代等は不詳ながら、源範頼(法名太寧寺殿道悟大禅門)の位牌が当寺あり、かつて源範頼の別邸が当地にあり、範頼公歿後、その霊を弔うために建てられたのではないかともいいます。東国八十八ヵ所霊場74番、金沢三十四所観音霊場4番です。

薬王寺
薬王寺の概要
山号 三療山
院号 薬王院
寺号 薬王寺
住所 横浜市金沢区寺前2-23-52
宗派 真言宗御室派
葬儀・墓地 -
備考 -



薬王寺の縁起

薬王寺の創建年代等は不詳ながら、源範頼(法名太寧寺殿道悟大禅門)の位牌が当寺あり、かつて源範頼の別邸が当地にあり、範頼公歿後、その霊を弔うために建てられたのではないかともいいます。

新編武蔵風土記稿による薬王寺の縁起

(寺前村)薬王寺
除地、小名上にあり、三療山醫王院と號す、開山尊譽、本堂五間に八間、西向、本尊大日坐像一尺六寸、又蒲冠者範頼の位牌在、太寧寺殿道悟大禅門、建久四年八月二十四日、傍に天文九年六月十三日修理すと云。
薬師堂。本堂に向て右にあり、三間に四間、薬師は三尺許の立像、行基の作と云。
金毘羅社。稲荷社。以上二社小社なり、薬師堂の左にあり。(新編武蔵風土記稿より)

「金沢の寺社」による薬王寺の縁起

三療山薬王院と称する。古くは三愈山遍照坊とよばれ、古義の真言宗。龍華寺の末寺、中興開山は尊響。『江戸名所図会』には、「本尊は胎蔵界の大日如来にして座像三尺ばかりあり」とみえ、『新編武蔵風土記稿』には「本尊大日坐像一尺六寸」とあり、同じく、「薬師堂、本堂に向て右にあり、三間に四間、薬師は三尺許の立像、行基の作と云」とある。薬師堂は、はじめ、薬師寺とも称し、薬師仏の本尊が存したという。 『江戸名所図会』に
本堂の前右の方にありて、廊をまうく。本尊薬師仏の像、脇土十二神将の木像と共に、行基大土の作にして、深く龕裡に秘安して、みだりに人に拝せしむる事なし。当寺旧は薬師寺と号す。室木大寧寺これなり。範頼卿歿したまひし後、その法号をとって薬師寺を大寧寺と改む。故にその頃の住侶、薬師寺の号を廃せん事を歎き思ひ、当寺を開創して薬王寺と名づくといふ。
とあって、ここには大寧寺との関係が書かれ、やや文に混乱がみられるよううだが、薬王寺のはじめは薬師堂であったとみられよう。また、『江戸名所図会』によれば、大寧寺と関係が深く、薬王寺は源範頼の別邸がこの地にあり、範頼公歿後、その霊を弔うために建立された寺であるという。同じく『江戸名所図会』に、「当寺に蒲御曹司範頼卿の霊牌あり」とみえ、これは、大寧寺殿道悟大禅定門、建久四年八月廿四日、とあって、裏に「天文九年六月十三日修理」と、この位牌は薬王寺に今もなお現存する。さらに「明和七年庚寅冬、現住賢英改焉」とみえることから、これは江戸期になってからの改作であると云われている。---云々---(「金沢の寺社」より)


薬王寺所蔵の文化財

  • 絹本著色種子両界曼荼羅図(横浜市指定有形文化財)

絹本著色種子両界曼荼羅図

真言宗の開祖、弘法大師空海が九世紀の初めに中国より持ち帰った密教絵画の中に、両界曼荼羅があります。
兩界曼荼羅は、大日如来を中心とした諸尊の配置により、真言密教の教えと宇通の真理を図示したもので、胎蔵界と金剛界の二面によって構成されています。
本図は、いずれも仏像のかわりに、それを象徴する種子(諸尊を表す梵字)で表わされており、この時代のものは関東では珍しいものです。
細部をみると赤・白・青・黄色の彩色が残り、随所に細かい切金が施され、荘厳な趣があります。
本図は、画法や種子の形状からみて、一四世紀以前にさかのぼる優品と考えられています。(横浜市教育委員会掲示より)

薬王寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵国風土記稿