妙蓮寺。横浜市港北区菊名にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

妙蓮寺。長光山大経院妙仙寺と浄寿山蓮光寺が合併

妙蓮寺の概要

日蓮宗寺院の妙蓮寺は、長光山本覚院と号します。妙蓮寺は、神奈川区新明町にあった長光山大経院妙仙寺と、当地にあった浄寿山蓮光寺が明治41年合併開山、其々の寺号を一字ずつ取り妙蓮寺と号したといいます。長光山大経院妙仙寺は、池上本門寺第三世大経阿闍梨日輪が観應元年(1350)に創建、江戸時代には寺領5石の御朱印状を拝領したという名刹でしたが、横浜鉄道臨港線引き込みに際して移転、移転先の浄寿山蓮光寺と合寺したといいます。

妙蓮寺
妙蓮寺の概要
山号 長光山
院号 本覚院
寺号 妙蓮寺
住所 横浜市港北区菊名2-1-5
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 妙蓮寺斎場を解放
備考 -



妙蓮寺の縁起

妙蓮寺は、神奈川区新明町にあった長光山大経院妙仙寺と、当地にあった浄寿山蓮光寺が明治41年合併開山、其々の寺号を一字ずつ取り妙蓮寺と号したといいます。長光山大経院妙仙寺は、池上本門寺第三世大経阿闍梨日輪が観應元年(1350)に創建、江戸時代には寺領5石の御朱印状を拝領したという名刹でしたが、横浜鉄道臨港線引き込みに際して移転、移転先の浄寿山蓮光寺と合寺したといいます。

境内石碑による妙蓮寺の縁起

妙蓮寺縁起
当山派、日蓮宗大本山池上本門寺の末寺で、長光山妙蓮寺と言う。お祀りする日蓮聖人のご尊像は、池上本門寺第二祖日朗上人の九鳳の一人、日像上人の作である。
当山の前身は観応元年開山大経院妙仙寺であり、今の横浜市神奈川区新明町にあったが、明治四十一年横浜鉄道臨港線引き込み線敷設に際して止むなく移転となり、当時の住職第四十一世慈性院日體上人は池上本門寺の末寺浄寿山蓮光寺を移転先に選んだ。
蓮光寺は天正年間正乗院日運上人が池上本門寺第十二世日惺上人を請じて開山とし、自らは第二世となり創設した寺院である。そして両山は明治四十一年八月八日この地に合併開山し、妙仙寺の「妙」と蓮光寺の「蓮」を合わせて「妙蓮寺」と改め日體上人が第一世となった。
妙蓮寺第二世慈開院日偉上人は、大正十五年東京横浜電鉄の開通による境内の軌道敷設に快諾し、妙蓮寺境内を無償で提供する。ここに妙蓮寺駅ができ、付近一帯の発展に寄与した。
昭和四十四年、妙蓮寺第三世慈篤院日仙上人は、宗祖御降誕七五〇年を記念し、五年の歳月をかけて現在の本堂と客殿を完成し、その後、庫裏、客殿を増築した。
平成二十年、当山現住職第四世日英は境内整備墓地区画整理を完了し現在に至る。(境内石碑より)

新編武蔵風土記稿による妙仙寺の縁起

(神奈川町西の町)妙仙寺
東光寺の後にあり、寺領五石の御朱印を賜はれり、日蓮宗荏原郡池上本門寺末、長光山大経院と號す、本山は第三世大経阿闍梨日輪観應元年起立する所なり、本堂六間半に五間巽向なり、本尊は宗祖日蓮の像なり、縁起の略に云、當寺に安置する所の高祖の像は九老僧日像の作なり、當時波木井の一族伊豆國より此地に移り住しけるに、波木井善太郎と云者あり、世にまれなる信者にて、毎朝池上の祖師堂へ参詣すること数年に及べども一日も怠らず、時の貫主日輪日々誦経の次に見知りたりしかば、或時善太郎に向ひてかたりけるは、汝は堅固の信者とみゆれば、大事を託せんとす、予が同胞の音うろ日豫と云ものあり、祖師在世の頃は十歳許の小童なりしが、黒髪をなでなで四句の要法を授け都にのぼり、法を弘めよろ命ぜられしが、今はかの総國平賀にありて病床に臥し、頻に日像に対面せんと乞へり、汝是より京に登り日像に尋逢ひ此旨をつたへば日々登山の功にをとるべからずと、善太郎けかひて即時に発足し、都に至り、一條戻橋邊にしてはからず日像に逢ひ、件の趣を通じ師の書簡を達せり、日像涙をながして云、今我弘通なかばにして捨て下りなば、忽都鄙ともに題目の聲たへん、しかのみならず權門の誹謗いかがあらんと、ひたすらに嗟嘆し笈の内より一體の祖師の像を出し、これ我不惜身命のはじめ自ら離刻して、竟夕宗弘のことを祈誓する本尊なり、汝是を関東へ守護し帰て輪公に見えて、老母此像に向ひ今又生身の高祖を拝し、我に対面のおもひをなし給へとまうせとて情なく立わかれぬ、善太郎は夢さめしここちして謗法充満の中を恐れ、この像を皮籠にいれ負て池上へ下りぬ、その後日輪當寺を建立して自ら此経難持の文を寫し、像の内へ納めて當寺へ安置せり、この餘日像自筆の神力及び勧請の板札ありと云々、
稲荷社。門を入て右にあり、わづかなる祠なり。
日調石像堂。同あたりにあり、日調は本山第二十世の住持なり、はじめ當寺へ住職せしこともありしにや。(新編武蔵風土記稿より)

新編武蔵風土記稿による蓮光寺の縁起

(菊名村)蓮光寺
村の南にあり、浄寿山と號す日蓮宗荏原郡池上本門寺の末、日運という僧此地を草創し慶安元年六月六日に寂せりされど日運開山の任に居らず、本門寺十二世日惺を請て開山となし己は第二世となれり、客殿五間半に四間、本尊三寶を置り。
七面堂。門を入て右にあり二間四方。(新編武蔵風土記稿より)


「横浜市史稿」による妙蓮寺の縁起

妙蓮寺
位置
妙蓮寺は、長光山大經院と號し、神奈川區菊名町十六十七番地に在る。境内は一千百七十坪。池上本門寺末で、寺格は緋金襴四等である。
沿革
當寺は明治四十一年八月、元、神奈川町字神明町七百四十四番地に在つた妙仙寺の第四十一世日體が、妙仙寺と、現地に在つた同宗蓮光寺とを合併して、各〻其一字を採って、妙蓮寺と改稱した。元、妙仙寺は長光山大經院と號し、觀應元年の草創である。池上本門寺第三世日輪は、鎌倉妙本寺住持後、住ニ池上一。宗祖日蓮の池上で示寂の後、鎌倉から池上なる日蓮の墓に詣づる事を怠らず、往返の途、神奈川宿に泊るを例とした。偶〻日蓮に歸依厚かつた大檀越波木井の一族で、伊豆から當所に近い生麥に移り住んでゐた善太郞と呼ぶ者が、日輪に歸依し、頗る堅固の信者であつたが、日輪の宿る旅舍がないのを見て、草庵を結び、後、日輸を請じて一寺とした。小田原北條氏は、之に寺領五石の朱印を興へ、德川氏も亦、同じく朱印を賜うた。而して明治維新に及んだ。然るに明治元年一月七日、神奈川町の大火に遇ひ、其後再建の事あつたが、再び囘祿の厄に罹つて、堂宇・什寶・舊記等に至るまで悉く灰燼となり、開山以來の由緒等が全く不明となつた。偶〻明治四十一年、横濱鐵道臨港線敷設に際し、當寺は其線内に當り、他に移轉の止むなきに至つた。然るに同郡菊名村蓮光寺は、同宗同末で、少檀且つ僻陬の地に在つて維持困難になつた折柄、當寺移轉の地を選ぶに際し兩寺住職竝に檀信徒が協議を遂げ、合併の機運に進み、第四十一世日體は、其筋の認可を得て、明治四十一年八月、當所に移轉合併を遂げ、妙蓮寺と改稱した。元蓮光寺は淨壽山と號して、今の地に在つた。池上本門の末で、寛永年間、正乘院日運の草創した所で在つたが、日運は本門寺第十二世日惺上人を請じて開山とし、自らは第二世に列した。以來法燈相續いたのであつたけれど、少檀で其の維持も次第に困難になつたので、遂に妙仙寺と合併するに至つたのである。
本尊
本尊は妙法蓮華經寶塔・釋迦・多寶・上行四菩薩・日蓮大菩薩の像である。日蓮大菩薩木像緣起に曰く「當寺に安置する所の宗祖日蓮の像は、九老僧日像の作なり。當時波木井の一族、伊豆國より此地に移り住しけるに、波木井善太郞と云者あり。世にまれなる信者にて、每朝池上の祖師堂へ參詣すること數年に及べども、一日も怠らず。時の貫主日輪、日々誦經の次に見知りたりしかば、或時善太郞に向ひて語りけるは、汝は堅固の信者と見ゆれば、大事を託せんとす。予が同胞の弟日像と云ものあり。祖師在世の頃は、十歲許の小童なりしが、黑髮をなでて、四句の要法を授け、都に登り法を弘めよと命ぜられしが、今は彼の地に在りて、祖風を西海までなびかせりと聞く。然るに老母、下總國平賀にありて、病床に臥し、頻に日像に對面せんと乞へり。汝、是より京に登り、日像に尋ね逢ひ、此旨を傳へば、日々登山の功に劣るべからすと。善太郞うけがひて、卽時に發足し、都に至り、一條戾橋邊にして、はからず日像に逢ひ、件の趣を通じ、師の書翰を達せり。日像淚を流して云、今我、弘通なかばにして捨て下りなば、忽都鄙ともに題目の聲絕へん。しかのみならず權門の非謗如何あらんと、ひたすらに嗟歎し、笈の内より一軀の祖師の像を出し、之れ我不レ惜二身命一の始め自ら彫刻して日夕宗弘の事を祈誓する本尊なり。汝、是を關東へ守護し、歸て輪公に見へて、老母此像に向ひ、今又生身の高祖を拜し、我に對面の思をなし給へと申せとて、情なく立別れぬ。善太郞は夢さめし心地して、謗法充滿の中を恐れ、之の像を皮籠に入れ、負て池上へ下りぬ。池上とあるは誤りにて鎌倉なりと云。其の後日輪、當寺を建立して自ら、此經難レ持の文を寫して、像の内へ納めて、當寺へ安置せり云々。」
堂宇
現今の堂宇は、本堂桁行六間、梁間五間、亞沿葺、四注造。元蓮光寺本堂であつたを、合併當時、大修繕を加えたものである。・内陣桁行二間三尺、梁間三間。・庫裡桁行十間、梁間七間、亞沿葺。明治四十一年四十一世日體建立。・臺所桁行二間半、梁間二間半、亞沿葺。明治四十一年新築。・總門及び中門明治四十一年建立。である。(「横浜市史稿」より)

妙蓮寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿」