妙智山歓成院。旧小机領三十三所子歳観音霊場、東国八十八ヵ所霊場
歓成院の概要
高野山真言宗寺院の歓成院は、妙智山法華寺と号します。歓成院は、善通法印(永禄18年1567年寂)が開山、第8世繼雄法印が堂宇を再建し中興したといいます。旧小机領三十三所子歳観音霊場12番、東国八十八ヵ所霊場23番です。
山号 | 妙智山 |
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院号 | 歓成院 |
寺号 | 法華寺 |
住所 | 横浜市港北区大倉山2-8-7 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | 大倉山観音会館 |
備考 | 大倉山アソカ幼稚園 |
歓成院の縁起
歓成院は、善通法印(永禄18年1567年寂)が開山、第8世繼雄法印が堂宇を再建し中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による歓成院の縁起
(太尾村)歓成院
村の中央より少く東北の方によりてあり、土人是を中の寺と呼ぶ、古義真言宗にて鳥山村三會寺末、妙義山法華寺と稱す、開山善通が草創すと云、永禄十年八月晦日寂す、本堂七間に六間餘坤に向ふ、本尊不動の木像を安ず立像にて長二尺。
鐘楼。門を入て右の方にあり、一間四方、鐘の徑り二尺五寸、寶歴四年甲戌十月二十七日鑄治せしものなり。
荒神疱瘡神合社。本堂の後の山にあり小祠西に向ふ、荒神の像は長六寸許立像にて普通の姿なり、疱瘡神は神體なし。
天神社。鐘楼の南にあり。神體木の坐像にて長六寸許。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿佛寺編」による歓成院の縁起
歡成院
位置
歡成院は妙智山法華寺と號し、神奈川區太尾町七百三十六番地に在る。境内は六百二十六坪。區内鳥山町三會寺末、寺格は十六等格院で、小机觀音靈場三十三番の第十二番の礼所である。
沿革
永祿年間の創建で、開山は善通法印と云ふ。第八世法印繼雄の代、延寶年間、堂宇を再建し、寺門興隆の基を開いた。依つて當寺中興開山と稱する。安政四年十一月九日、囘祿の厄に罹り、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸した。其後久しく再建の機運をみなかつたが、明治三十年に、時の住職第二十一世久次覺明が、深く寺門の衰退を歎いて、再建の素願を發し、遂に中興を遂げた。是れが卽ち今の堂宇である。依つて師を明治中興の祖と仰ぐ。第二十三世魔尼興寶、更に内部の構造を整へて、莊嚴を修飾した。
附記。當院は村の中程に在るので、往時里人は仲ノ寺と稱したと云ふ。
本尊
本尊は十一面觀世音菩薩の坐像、長一尺、運慶作とへられてゐる。
附記。俗に蟲除觀音と稱して、地方人の信仰が厚い。昔時は當院持觀音堂の本尊であつたが、廢堂の折、院内へ移し、後、本尊としたと云ふ。
堂宇
今の堂宇は本堂 桁行六間半、梁間六間、方形造、瓦葺。・庫裡 桁行四間、梁間六間、茅葺。・鐘樓 桁行八尺、梁間八尺、茅葺。寶曆四年の梵鐘を懸く。山門 桁行九尺、梁間六尺、茅葺。・物置 桁行二間、梁間二間半。等である。(「横浜市史稿佛寺編」より)
歓成院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿佛寺編」
- 高野山真言宗歓成院大倉山アソカ幼稚園