舊城寺。横浜市緑区三保町にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

久保山舊城寺。榎下城の跡地、武相寅歳薬師如来霊場

舊城寺の概要

高野山真言宗寺院の舊城寺は、久保山と号します。舊城寺の創建年代等は不詳ながら、観護寺三會寺の條によると印融法印(1435-1519)が当寺住職を勤めていたといいます。横浜市教育委員会の掲示では、上杉憲清が築いたと伝えられる榎下城の跡地に慶長年間(1596-1614)開かれたといいます。武相寅歳薬師如来霊場初番です。

舊城寺
舊城寺の概要
山号 久保山
院号
寺号 舊城寺
本尊 大日如来像
住所 横浜市緑区三保町2038
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



舊城寺の縁起

舊城寺の創建年代等は不詳ながら、観護寺三會寺の條によると印融法印(1435-1519)が当寺住職を勤めていたといいます。横浜市教育委員会の掲示では、上杉憲清が築いたと伝えられる榎下城の跡地に慶長年間(1596-1614)開かれたといいます。

新編武蔵風土記稿による舊城寺の縁起

(久保村)舊城寺
除地、五段許、村の北の方にあり、是も同く三會寺の末、久保山と號す、客殿六間に七間南向なり、本尊大日坐像にして長六寸許、開山を詳にせず。
薬師堂。客殿に向て右の方にあり、此本尊眼なきを以無限の薬師と云、行基の作なりと、立像にて長一尺許にして甚古佛なり、此堂もとは村の南今の薬師谷にありしを、いつの頃か寺内へ移せり。
城址。境内にあり、此地は山田右京進と云ものの居城なりとて、二重にから堀あり、又一段高き處を本城跡と云、當寺の入口に、近き頃までも喰違の土手ありしなり、墓所に石碑を立、覺養院相傳浄雄居士、慶長十九年十一月十五日とあれば、城主右京進が家老蘆垣浄泉同大膳などの石碑なりや、近来まで榎下村に彼蘆垣が族残れり、かれが先祖なりと土人は云へり。(新編武蔵風土記稿より)


舊城寺所蔵の文化財

  • 榎下城址
  • 舊城寺林(県指定天然記念物)

榎下城址

榎下城は、上杉憲清が築いたと伝えられ、自然の丘陵地を利用し、本丸は一段高いところに位置し、内外に空堀をめぐらし、さらに土を盛って土塁を築き、大手口には侵入者をまっすぐ城内に入れないために喰い違いの虎口という独特な土塁を築いています。また東側の堀は谷を利用して箱堀となっています。
上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438)に足利持氏に加担し、敗れて金沢称名寺で自決して以来、城主については不明ですが、小田原北条氏の時代にも小机衆の拠る小机城に対して出城の役目を果たしていたとも考えられます。
その後、慶長年間(1596-1614)にこの地に旧城寺が開かれました。
寺林は、県指定天然記念物に指定されています。(横浜国際観光協会・横浜教育委員会文化財課掲示より)

舊城寺山門

山門由来記
この山門は明治廿六年もと横浜の神奈川通りにありし浄土真宗本願寺派海見山長延寺十一世雲居玄照法師の代に建立せられしものなり。幸にも関東大震災、横浜大空襲の難をまのがれたり。昭和四十一年第十五世雲居隆昌法師の代に長延寺は當三保町に遷山。佛縁によりてこの山門を舊城寺に復元す。之が復元に當り、石井忠兵衛氏檀越となり工事費百五拾萬円を供養せらる。時に宗祖弘法大師御誕生千二百年の記念すべき年に落成。昭和癸丑八月四日
久保山舊城寺住職野村全宏 識之(境内石碑より)

舊城寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿