東宮山安養寺。金沢観音霊場
東宮山安養寺の概要
高野山真言宗寺院の安養寺は、東宮山無量院と号します。安養寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代には大伽藍を備えた寺院だったものの、大永元年(1521)火災により焼失したといいます。翌年光順法印が中興開山したといいます。金沢三十四所観音霊場23番です。
山号 | 東宮山 |
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院号 | 無量院 |
寺号 | 安養寺 |
住所 | 横浜市港南区港南台2-24-13 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東宮山安養寺の縁起
安養寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代には大伽藍を備えた寺院だったものの、大永元年(1521)火災により焼失したといいます。翌年光順法印が中興開山したといいます。金沢観音霊場23番です。
新編武蔵風土記稿による東宮山安養寺の縁起
(宮ヶ谷村)安養寺
除地、八畝、小名中村にあり、古義眞言宗、石川寶生寺の末、東宮山無量院と號す、本堂五間半に六間半南向、本尊阿彌陀長二尺程、傍に地蔵を安す、立像一尺許、行基の作、當寺は舊き地にて、鎌倉治世には大伽藍なりし由、大永元年祝融に罹り、堂舎はさらなり、舊記まで悉く烏有となり、同き二年光順法印、力を盡して再興の事をなせしかば、これを中興開山と仰けり、この僧は同年六月二十一日示寂。(新編武蔵風土記稿より)
「港南の歴史」による東宮山安養寺の縁起
安養寺(東宮山無量院)
当寺は、大永元年(一五二一)、火災によって、堂宇、旧記等悉く、灰燼に帰したため草創の年代開山、開基など明らかにするととができないが、口碑では、近在に於て最も古い寺で鎌倉時代には、大伽藍が整備され、寺容の雄大を誇示されたというが、大永の祝融後、時の住職であった、光順法印が、再興に努力されたので、「中興開山阿闇梨光順大和尚、不生」と位牌が、その功績を物語っている。
寺運は、その後次第に衰微して明治維新ののちが、荒廃の極に至ったが、明治二八年、波多野智良が、当寺に、晋山してからは、再興に努め、堂宇の修造など中興の業をなしとげた。
ととろが、大正一二年九月一日の、関東大震災で、折角の本堂は、倒壊、庫裡は大破してしまった。(「港南の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による東宮山安養寺の縁起
安養寺
位置
安養寺は、東宮山寶無量院と號し、中區日野町三千八百八十四番地に在る。境内は二百六十八坪。民有地。高野山金剛峯寺の直末で、寺格は十七等、金澤礼所觀音靈場第二十三番である。
沿革
草創の年代竝に開山・開基不詳。口碑に據れば、當寺は最も古き寺で鎌倉時代には大伽藍を完備したと云ふ。大永元年、祝融に罹り、堂宇・舊記等悉く鳥有に歸し、時の住僧光順法印が再興を遂げたので、光順を當寺の中興開山とする。其後次第に退轉し、維新後は荒廢を極めたところ、明治二十八年、現住波多野智良が入つて住職となり、力を再興に盡し、堂宇の修造を遂げ、中興の業を立てた。然るに大正十二年九月一日の震災に、本堂は倒壊し、庫裡は大破に及んだので、今、再建の企畫中である。當寺は、古來、石川寶生寺末で在つたが、明治七年、元町增德院に轉屬し、大正十二年、更めて高野山金剛峯寺の直末となつた。
本尊
本尊は阿彌陀如來の立像、長二尺、作不詳。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
東宮山安養寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「港南の歴史」
- 「横浜市史稿 佛寺編」