南光山福聚院。金澤觀音靈場、東国八十八ヶ所霊場
南光山福聚院の概要
高野山真言宗寺院の福聚院は、南光山慈眼寺と号します。福聚院の創建年代等は不詳ながら、第12世貞法印が、天正16年(1588)示寂であることから、室町時代の創建であろうといいます。金沢三十四ヶ所観音霊場27番、東国八十八ヶ所霊場67番、金沢三十四所観音霊場27番です。
山号 | 南光山 |
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院号 | 福聚院 |
寺号 | 慈眼寺 |
住所 | 横浜市港南区港南1-3-2 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
南光山福聚院の縁起
福聚院の創建年代等は不詳ながら、第12世貞法印が、天正16年(1588)示寂であることから、室町時代の創建であろうといいます。
新編武蔵風土記稿による南光山福聚院の縁起
(松本村)福壽院
小名橋戸にあり、古義真言宗、石川寶生寺末、南光山慈眼寺と號す、本堂六間半に四間南向、本尊如意輪観音の坐像にて、長一尺三寸許なると安置す、以上のニヶ寺今は住職の僧なく、開山開基等詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
「港南の歴史」による南光山福聚院の縁起
福聚院(南光山慈眼寺)
「本堂六間半に四間南向、本尊如意輪観音の坐像にて、長一尺三寸許なるを安置す、今は住職なく、開山開基詳ならず。」と『新編武蔵風土記稿』にあって、文政一一年前掲書成稿の頃は、無住であったととが知られる。
現住の作成した由来書にも、室町時代の草創と伝えられるが、寛政一二年(一八〇〇)から、八〇数年間は、無住の時代で、近隣の寺院で、法要等は兼務執行されていたと審いである。
このため、寺は荒廃して、関係記録、文書、什物、など離散紛失してしまったが、僅かに、天保一二年(一八三二)三三世寛光阿闇梨が整備した過去帳によって、一二世良貞法印(天正一六年寂)が、中興開山と記録されているが、その過去帳に、開山阿闇梨纏伝から一一世住職までは不明と付記されている。
一二世以降は、三三世まで住職名は列記されているが、その後は、先住成田全之和尚まで無住であった。(「港南の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による南光山福聚院の縁起
福聚院
位置
福聚院は、南光山慈眼寺と號し、中區笹下町一千百二十五番地に在る。境内は四百六十八坪。區内の增德院末、寺格は二十等、金澤靈場觀音礼所の第二十七番である。
沿革
草創の年代、竝に開山・開基は不明であるが、第十二世貞法印の示寂が、天正十六年十一月十六日とあるより推せば、その創建は室町時代であらうと思はれる。最近數十年間は無住で、荒廢に任せて在つた為、關係記錄・文書等も殆ど傳はらぬので、沿革も亦尋ね難い。大正十二年九月一日の震災に、本堂は倒壊、庫裡は半潰に及んだが、現住第三十四世成田全之が、昭和二年五月、本堂を再建し、庫裡を修覆して、舊觀に改めた。昔は、石川寶生寺末で在つたが、明治七年、增德院に轉屬し、現住に及んで居る。
本尊
本尊は如意輪觀世音坐像、長一尺三寸、作不詳である。
堂宇
今の堂宇は、本堂 桁行六間、梁間五間半、向拜附、四注造、亞沿葺。・庫裡 桁間六間、梁間四間半、草葺。・廊下 桁間一間、梁間三間、亞沿葺。・物置 桁間二間、梁間四間、草葺。等である。
境内社
白山社。桁行四尺、梁間四尺、亞沿葺。祭神は白山權現。由緒不詳。昭和二年五月、三十四世成田全之代再建。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
南光山福聚院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「港南の歴史」
- 「横浜市史稿 佛寺編」