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猫の足あと

松本山正覚寺。横浜市港南区港南にある浄土宗寺院、金澤觀音靈場

松本山正覚寺の概要

浄土宗寺院の正覚寺は、松本山法身院と号します。正覚寺は、間宮氏が権現堂の戦いに死傷者多数を出して権現堂は焼失、供養のために載蓮社運誉正阿覚冏(正長元年1428年寂)が、この地に正覚寺を、吉原に報身寺を開創、日野郷の領主荒井若狭守の家臣高梨林右衛門(法名浄楽院般高誉貴繁栄信大居士)が開基、江戸時代中期には末寺7ヶ寺を擁していたといいます。金澤觀音靈場の26番札所です。

正覚寺
正覚寺の概要
山号 松本山
院号 法身院
寺号 正覚寺
住所 横浜市港南区港南2-11-1
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



松本山正覚寺の縁起

正覚寺は、間宮氏が権現堂の戦いに死傷者多数を出して権現堂は焼失、供養のために載蓮社運誉正阿覚冏(正長元年1428年寂)が、この地に正覚寺を、吉原に報身寺を開創、日野郷の領主荒井若狭守の家臣高梨林右衛門(法名浄楽院般高誉貴繁栄信大居士)が開基、江戸時代中期には末寺7ヶ寺を擁していたといいます。

新編武蔵風土記稿による松本山正覚寺の縁起

(松本村)正覺寺
年貢地、小名大谷にあり、浄土宗、橘樹郡神奈川宿慶運寺末、松本山法身院と號す、門を入石階五十三級を登りて本堂の前に至り、本堂七間半に七間南向、本尊阿彌陀を安す、坐像にて長三尺餘、惠心の作、外に観音・地蔵・彌陀・勢至の畫像一軸あり、惠心の作と云、開山運譽覺同は、正長元年七月十六日示寂すといへば、古き草創なれど、寺傳を失ひたれば詳なることを知らず。
稲荷社。本堂の背後にあり。
観音堂。本堂の左傍にあり、ニ間半に三間の堂にて、十一面観音を安す、立像臺座共長一尺五寸許、行基の作といふ、金澤札所の内十六番なり。(新編武蔵風土記稿より)

「港南の歴史」による松本山正覚寺の縁起

正覚寺(松本山法身院)
当寺に伝わる寺歴によると、往昔は真言宗であったが、正長元年(一四二八)、相模国日野郷の領主荒井若狭守の家臣高梨林右衛門(法名浄楽院般高誉貴繁栄信大居士)が、浄土宗に改めて、開基とふなった古刺であって、開山載蓮社運誉正阿覚冏(正長元年七月一六日寂)で、寺号は開山の法名から、山号は村名によったものである。
往古、総門に近く、巨大な松の老樹があって、丁度村の中央に位置していたので、村人の集合は、老松樹の上からホラ貝を吹いて。松の根方に集り、寄り合いを聞いたので、「松本」の地名が生れ、山号にしたと古老の伝承があるが、『新編武蔵風土記稿』の「松本村」の項にも「土人云村内正覚寺の傍に松樹一株たてり、是村名の起る所にして其木を松本の松と呼べりと、」とある。
当寺はいつの頃か火災に罹り、過去帳、旧記の伝えを失い、正しい沿革を知ることができない。が、江戸中期以前は、金山寺、来迎寺、勢至庵、光明寺、浄岸寺、報身寺、正応寺の末寺七カ寺を有し、前四カ寺は明治維新の際廃寺となり、浄岸寺は宗教法人法改正を機に当寺に併合、報身寺は護念寺に統合された。
報身寺は吉原山一心院と号し、開山は正覚寺と同じ、運誉覚冏。浄岸寺は金井山、開山東蓮社一誉長徹(延宝八年八月六日寂)で、安永四年生まれで日野の入、名主職をつとめる高梨林右衛門が、境内地、一畝二七歩を寄進して、金井谷から移建したもので、共に日野にあった。
高梨氏の先祖は小田原北条氏の浪人で、帯刀と称した、元相州高梨町にあって、在名をもって、氏とし、高梨六郎高信という。地頭から苗字を許されかつ郷目付の役を与えられていたという。
『新編武蔵風土記稿』には「門を入り石階五十三級を登りて本堂の前に至り」とあって、往昔、参道入口に総門があらたと思われ、現在は石段に至るあいだは、駐車場になり、石段は六六級で、山門に達する。
山門には、右側の柱に「開山正長元年西暦一四二八年 浄土宗正覚寺」の看板が掲げてあって、他の寺院と異なった雰囲気を受ける。(「港南の歴史」より)

境内掲示による松本山正覚寺の縁起

松本山正覚寺
松本の名発祥の地笹下城の出城松本城跡、間宮氏権現堂の戦いに死傷者多数を出し、権現堂は焼失、その供養のため浄土宗聖冏の門下覚冏(一四二八年歿)が、この地に正覚寺を、吉原に報身寺を開創、爾来五百数十年の法燈を継ぎ、現住第三十七代を数える。
本尊弥陀三尊、恵心僧都御作 宮殿欅彫、須弥壇 室町時代作
金沢札所第二十六番行基菩薩御作十一面観世音菩薩
県民俗芸能五十選選定市無形文化財双盤念仏芸
八月十六日おせがき法要(境内掲示より)

「横浜市史稿 佛寺編」による松本山正覚寺の縁起

正覺寺
位置及寺格
正覺寺は松本山法身院と號し、中區笹下町字松本一千五百四十番地に在る。境内は四百三十六坪。神奈川區飯田町慶運寺の末で、寺格は能分三等、金澤觀音靈場の第二十六番札所である。
沿革
後小松天皇御宇、應永年間、運譽覺冏上人正長元年七月一六日寂。の開創した所と云ふも、いつの頃か火災に罹り、過去帳竝に舊記等を傳へぬので、沿革等は全く不明である。墓碑其他に就いて考ふるに、開山以來法流は三十五世に及んで居る。今の堂宇は現住第三十五世融譽が、明治四十四年に再建したところで、大正十二年九月一日の關東大震災に大破に及んだが、再び大修覆を加へて、舊觀に復した。
本尊
本尊は阿彌陀如末木坐像、一尺八寸、傳、惠心僧都作である。脇士は觀音・勢至
二菩薩像、長各〻九寸五分、同作と云はれゐる。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行七間、梁間六間半、草葺、四注造。向拜、二間、一間、瓦葺。・庫裡桁行六間半、梁間六間、草葺。・物置桁行四間、梁間二間、草葺。及び山門桁行一間半、梁間一間。等である。
境内佛堂
觀音堂。桁行三間、梁間二間半、亞沿葺。明治四十四年、第三十五世融譽代再建。本尊十一面觀世音普薩立像、長一尺一寸三分、傳に行基作で、金澤札所第二十六番の本尊である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


松本山正覚寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「港南の歴史」
  • 「横浜市史稿 佛寺編」