関宮山東樹院。金澤觀音靈場、金沢三十四ヶ所観音霊場
関宮山東樹院の概要
高野山真言宗寺院の東樹院は、関宮山寂静寺と号します。東樹院は、沙門順玉が大治2年(1127)に創建したと伝えられ、その後衰廃していたものを沙門至順が嘆き、笹下城主間宮豊前守の助力を得て再興したといいます。金沢三十四ヶ所観音霊場28番、東国八十八ヶ所霊場70番、金沢三十四所観音霊場28番です。
山号 | 関宮山 |
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院号 | 東樹院 |
寺号 | 寂静寺 |
住所 | 横浜市港南区笹下2-24-17 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 東樹院幼稚園 |
関宮山東樹院の縁起
東樹院は、沙門順玉が大治2年(1127)に創建したと伝えられ、その後衰廃していたものを沙門至順が嘆き、笹下城主間宮豊前守の助力を得て再興したといいます。
新編武蔵風土記稿による関宮山東樹院の縁起
(關村)
東樹院
除地、七段、山除地五段、村野北金澤道の傍にあり、古義眞言宗、石川寶生寺末、關宮山寂靜寺と號す、古寺號を御大塗寺とゝなへしが、寛文十一年十月四日、時の僧宥圓へ御室の宮より今の山號寺號を賜へりと云、其時の文書今に蔵す、本堂六間半に五間、本尊大日を置、坐像長さ一尺五寸、寺傳を閲するに、大治二年沙門順玉なるもの當所に遊歴し、當院を爰に創建ししが、弘治年間に至り一度衰廢に及べり、然るに至順と云へる沙門も、又遊歴して爰に来り、一寺の廢せるを悲み中興せり、其頃間宮豊前守は笹下郷に居城せしゆへ、至順屡往てかくと歎きければ、頓て三十貫の地を寄附して寺領となせり、故に豊前守を中興開基とす、其後天正五六年の頃住僧なにがしいかなる故にや、彼寺領寄附状を地中に埋めしによりて、寺領を沒収せらる、同十八年七月検地の時、辻七助吉次より出せし文書の寫を蔵す、其文に、杉田之内東樹院門前共前々棟別無之之由候間、只今も措置申候云々とあり、其後寛永三年御代官間宮彦次郎公に達し、境内五石の地を除地となせり。
寺寶。
狐玉二顆。
渡唐天神畫像一軸。松樹下梅を持たる像にて、上に文字あれど火災に罹りし時、焼損して文字全は見えず、これ狸の書なりと云傳う。
文書二通
武蔵国久良岐十二郷内杉田三ヶ村
禁制
一軍勢甲乙人等濫妨狼藉事、
一放火事、
一對地下人百姓非分之儀申懸事、
右條々堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可被處厳科者也、
太閤秀吉印 天正十八年四月日
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山號寺號所望之事、令披露之處、可被稱大圓山寂靜寺旨、惣法務宮御氣色之處、仍執達如驗。
寛文十一年十月四日
花押奉 宥圓御房
文中大圓の字を紙をもて張り關宮とありし由、今其紙ははなれて大圓の二字見ゆ、此餘古文書制札等四通を蔵せしが、祝厳のために烏有となり、今は寫のみを載すれば爰に出さず、但其内間宮左衛門大夫が出せしと云制札あり、花押を見るに北條左衛門大夫氏勝の花押に似たり、恐くは間宮氏にはあらで氏勝の出せしものなるべし、其寫左の如し。
禁制
右當寺中致狼藉之由不及是非候、自今以後致狼藉付而者、篠下土民共與自當城可打散者也、仍如件、四月日 左衛門大夫花押
稲荷社。境内の山上にあり。
辨財天社。本堂の前にあり。
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観音堂
除地、一畝十八歩、村の北東樹院の向にあり、如意輪観音を安す、行基の作、坐像にて長一尺、金澤札所の内二十八番なり、堂は四間に三間、古へは如意坊と號せし由、今小名を廢せり。
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阿彌陀堂
除地、一畝二十歩、村の東方にあり、堂は四間に三間、阿彌陀の傍に地蔵を置く、以上東樹院持。(新編武蔵風土記稿より)
「港南の歴史」による関宮山東樹院の縁起
東樹院(関宮山寂静寺)
住古、寺号を御大塗寺と称したといわれるが、寛文一一年(一六七一) 一0月四日、時の住僧宥円が、京の御室仁和寺の宮から、大圓山寂静寺の山号寺山を賜ったが、大圓山の山号に紙をはって、関宮山と訂正したが、後紙が剥れて大園山の文字が町内び現れたという。
往昔は、本尊は大日如来であって、寺伝によると、大治二年(一一二七)沙門順玉が、遊歴の途、この地に立ち寄って、当院を創建したというが、その後弘治年間(一五五五~五八)に至って、寺運が衰退して、荒廃の様相を呈していたのを、遊歴の道すがら、この有様を眺めた沙門至順は吾がことのように悲しみ、寺の興隆に一念発起した。
当時、篠下城は、領主間宮豊前守が居城であったので、僧至順は、同域におもむいて、領主に、寺の荒廃の状況を言上すると、三十貴文の地を下されたので、寺領とすることができた。
以来、寺では間宮豊前守を中興の開基とした。ととろが、天正五、六年(一五七七・八)の頃の住僧某が、いかなる理由からか、間宮氏からの寺領寄進状を、地中に埋めてしまったので、その後は、寺領は没収されてしまった。
天正一八年(一五九〇)七月検地が施行された時、辻七介吉次という人が、かつて地中に埋めた文書の写を持っていたのでその文書の一節に、「杉田之内東樹院門前共前々棟別無之之由候間、只今も指置申侯云々」とあって、徳川氏も前例によって、門前棟別銭己下免除の證状を附与された。
寛文三年(一六六三) 一〇月に、御代官間宮彦次郎は、幕府に願い出て、境内五石の地を除地とした。
元禄七年(一六九四)三月二一日、民家からの出火に類焼して、多くの什宝、古文書を烏有に帰した。
元禄九年(一六九六)一一月、本堂、客殿兼用の再建はできたが、二三年後の享保四年(一七一九)の冬に至って、庫裡その他の建物がようやく完成した。
寛政年中(一七八九一一八〇〇)、三七世堯智法印が堂宇の修覆を行なっている。
東樹院は、村内の鎮守、稲荷社、天王社、観音堂(金沢観音霊場札所)、阿弥陀堂を、とりしきっていた。
明治一七年一月三目、再度の火災によって、堂宇や、什宝の全てが再び灰燼に帰した。
この時、隣接の久良岐郡役所も類焼してしたので、郡役所関係資料は、共に焼失してしまった。
明治二〇年(一八八七)一月二一日に至って、本堂兼帯の庫裡が再建できた。
元金沢観音霊場三十四番の第二十八番札所。新四国東国観音霊場八十八番の第七十番札所。(「港南の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による関宮山東樹院の縁起
東樹院
位置
東樹院は關宮山寂靜寺と號し、中區笹下町二百五十一番地に在る。境内は二百四十坪。增德院末で、寺格は二十等。觀音靈場金澤礼所の第二十八番である。
沿革
崇德天皇の大治二年九月、沙門順玉の草創した所で、往昔は日野・吉原を寺領としたと云はれ、其後、荒廢に及んだのを、後奈良天皇の弘治三年三月、沙門至順が、地頭間宮豊前守から三十貫文の施入を得て、中興を遂げたと傳へる。某年天正年中か。四月、北条左衞門大夫綱成 緣起には、間宮左衞門大夫とあるが、風土記稿には北条氏勝かとある。今、武州文書に從ひ、綱成とする。が、當寺に禁制を出し、天正十八年四月、豊臣秀吉が亦、禁制を出した。同年七月十日、德川氏は先例に據り、門前棟別錢己見下免除の證狀を、辻七介吉次をして附與せしめ、辰十二月九日、また代官間宮直次をして重ねて禁制を出さしめ、寛永三年十月、幕命に依つて、更に、寺内五石免除の墨付案 天光院取次。を附與せしめた。寛文十年十月四日、惣法務宮より大圓山寂靜寺の稱號許可の御敎書を賜はつた。元祿七年三月二十一日、民屋の出火に類燒して、多くの什寶を失つた。同九年十一月、客殿の再建を遂げ、享保四年の冬に、庫裡・其他造立の完成を了し、寛政年中、堯智法印の代に、堂宇の修繕を遂げた。當寺は往古から石川寶生寺に隸し、維新前までは村内の鎭守稻荷社・天王社及び觀音堂・阿彌陀堂を進退してゐた。明治七年增德院に轉屬し、明治十七年一月三日、復、火災に罹り、堂宇及び什寶が灰燼に歸したが、明治二十年一月、本堂兼帶の庫裡を再建した。これが今日の堂宇である。
本尊
本尊は、阿彌陀如來木立像、長一尺。作者不詳である。舊本尊は、明治十七年一月三日燒失し、今の本尊は、同二十年一月二十一日、假殿再建の際に、增德院から附屬されたものである。
堂宇
今の堂宇は、本堂兼庫裡 桁行七間、梁間四間半、四注造、草葺。一宇である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
関宮山東樹院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「港南の歴史」
- 「横浜市史稿 佛寺編」