円覚寺。横浜市南区伏見町にある臨済宗円覚寺派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

久保山円覚寺。円覚寺管長の指示により明治18年設立

久保山円覚寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の久保山円覚寺は、久保山と号します。久保山円覚寺は、円覚寺の管長今北洪川管長の指示により、明治18年出張所を設立、明治43年に大本山円覚寺直末の一力寺となったといいます。

久保山円覚寺
久保山円覚寺の概要
山号 久保山
院号 -
寺号 円覚寺
住所 横浜市南区伏見町15
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



久保山円覚寺の縁起

久保山円覚寺は、円覚寺の管長今北洪川管長の指示により、明治18年出張所を設立、明治43年に大本山円覚寺直末の一力寺となったといいます。

「南区の歴史」による久保山円覚寺の縁起

久保山圓覚寺別院(天池庵)
円覚寺今北洪川管長は、横浜の地が開港以来都市化の発展がめざましく、人口の増大は日に月に止まるところがない状態であるのに、横浜には円覚寺の末寺がなく布教伝道のうえに支障がある故、戸塚北天院渓山周泉(塚田)、塔頭済蔭庵木村潤石に、円覚寺塔頭の天池庵の名を以って一寺を建立する要請をしたのが、明治一七年末で、翌一八年本山の開山六百年遠忌の記念として保土ヶ谷町字久保山八六八番地に出張所を設けた。経営は困難をきわめて成果をあげるにいたらなかった。そこで管長洪川は、金井村玉泉寺の天敬省玄(鈴木)に命じ、寺務をとらせた。鈴木省玄は明治二〇年一月、円覚寺別院を称する許可を得、また金井玉泉寺の祠堂金の一部や、同寺所有の不動産を逐次売却して、久保山円覚寺別院の経営にあたり、明治二〇年六月五日から一二日まで入仏式法会を行なった。本尊は本山秘蔵舎利の分粒である。
明治二五年九月戸太村太田に海老塚の地所を買受け、同年一一月二五日浄智寺の客殿萱葺九間半に六間半、庫裡は師弟祥山和尚の実家、西邑家から茶室の瓦葺六間半に五間半の寄付を受けて移築し、布教の道場と庶民の葬祭回向を主とする別院が完備した。その頃横浜の生糸貿易商の随一であった亀善原幸三郎は真言宗元町増徳院の檀家であったが、増徳院の当時の住職と寄付した幕の事をめぐって、意志の疎通を欠くことがあって改宗、久保山の天敬和尚に帰依して檀徒となり、一門の社員競うが如く檀家となって、その数三〇〇を越え盛大となった。信徒総代原善三郎、海老塚四郎兵衛、新堀丑太郎。
明治二六年四月釈宗演を拝請して入仏慶讃授戒会を挙行した。明治三九年一一月二六日天敬省玄(鈴木)は死去した。本山は同月二九日葬送にあたって別院中興の称号を贈って、その勲労を表彰した。天敬省玄は生前から自分が埋葬される立棺を作製し、その内部に地蔵経・金光明経を暇をみては写経して用意していた。明治四三年一一月二〇日院代石井雪岑が本山の許可を得て独立の一力寺とし大本山直末と改め、堂宇の本堂、庫裡、小書院、表門を完備したが、大正一二年九月一日の大震災のため建造物は悉く倒壊してしまった。昭和六年一月ときの住職大玄武渓(中西)は、本堂、玄関、庫裡と書院の再築を完成したが、昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲によって堂宇の全ては烏有に帰した。昭和三九年四月、木造瓦葺間口一〇間半、奥行一〇間。向拝間口五間に奥行二間。玄関三〇坪。昭和四五年五月庫裡間口二間半に奥行七間、二階客殿、書院九間に六間が完成して久保山寺街に一異彩をはなつ寺院を建立した。(「南区の歴史」より)


久保山円覚寺の周辺図


参考資料

  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)