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宝陀山玉泉寺。横浜市栄区金井町にある臨済宗円覚寺派寺院

玉泉寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の玉泉寺は、宝陀山と号します。玉泉寺は、日向の国司橘常光の弟で、当地に在住していた常清が、兄常光の信仰する観音・薬師のお告げにより、兄の死を知り得たのに感じ、観音・薬師の二尊を勧請し、天台宗宝陀山常光院と号して元亨元年(1321年)に創建したといいます。建武年間(1334~1335年)に大雅の法嗣、東洲省冝が禅寺を開創し、当寺を宝陀山玉泉寺と改め、文化年中(1804~1818年)に入り、住持牛山と一道祖超が本堂を新築、誠拙周樗(大用国師)を拝請して中興としたといいます。誠拙周樗は、その後鎌倉円覚寺189世、京都相国寺・京都天龍寺を歴任した名僧で、誠拙和尚関係資料は横浜市有形文化財に指定されています。

玉泉寺
玉泉寺の概要
山号 宝陀山
院号
寺号 玉泉寺
本尊 -
住所 横浜市栄区金井町1595
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



玉泉寺の縁起

玉泉寺は、日向の国司橘常光の弟で、当地に在住していた常清が、兄常光の信仰する観音・薬師のお告げにより、兄の死を知り得たのに感じ、観音・薬師の二尊を勧請し、天台宗宝陀山常光院と号して元亨元年(1321年)に創建したといいます。建武年間(1334~1335年)に大雅の法嗣、東洲省冝が禅寺を開創し、当寺を宝陀山玉泉寺と改め、文化年中(1804~1818年)に入り、住持牛山と一道祖超が本堂を新築、誠拙周樗(大用国師)を拝請して中興としたといいます。誠拙周樗は、その後鎌倉円覚寺189世、京都相国寺・京都天龍寺を歴任した名僧です。

新編相模国風土記稿による玉泉寺の縁起

(金井村)
玉泉寺
寶陀山と號す、臨済宗(鎌倉圓覺寺末)正観音(行基作、長一尺八寸、)を本尊とす、開山は東洲(應安五年正月五日寂す)
鐘樓。鐘は明和四年の銘を鐫れり、(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による玉泉寺の縁起

玉泉寺(金井町一五九五番地)臨済宗
鎌倉円覚寺派にぞくし、もと天台宗であったという。元亨元年(一三二一)九州日向の国司橘常光の弟で、当地に在住していた常清が、兄常光の信仰する観音・薬師のお告げにより、兄の死を知ることができたのに感じ、観音・薬師の二尊を勧請し、山腹に宝陀山常光院という一宇を建てたのが当寺草創のはじめであった。その後延文年中大雅の法嗣東州省宜が開山となり禅寺を開創、次いで建武年間現在地に移転して玉泉寺と称した。降って文化年中時の住持牛山が本堂を新建立し、大用国師(誠掘周檽)を拝請し中興の祖として、再興したが、この時再建の旧伽藍は関東大震災で倒壊した。現本堂は震災後の建立で四十八坪余。(「戸塚区郷土史」より)

境内掲示による玉泉寺の縁起

玉泉寺
元亨元年(1321年)九州日向の国司橘常光の弟で、当地に在住していた常清が、兄常光の信仰する観音・薬師のお告げにより、兄の死を知り得たのに感じ、観音・薬師の二尊を勧請し、山腹に宝陀山常光院という天台宗の一宇を建立したのがはじめであると伝えられている。その後、建武年間(1334~1335年)に大雅の法嗣、東洲省冝が禅寺を開創し、現在地に移転して宝陀山玉泉寺と号した。文化年中(1804~1818年)時の住持牛山と一道祖超が本堂を新築し、大用国師(誠拙周樗)を拝請して中興の祖とした。誠拙は四国宇和島の出身で、7才で出家し、諸国遊学の後、武州久良岐郡永田の東輝菴に住した高僧である月船禅師に師事して高弟となり、鎌倉円覚寺の指導者として、教義と儀式を復興し、寺の修復につとめた。
しかし、内心に栄達を望まなかった誠拙は、玉泉寺に不顧庵忘路亭という茶室を建て隠居したという。
ただ、当時の臨済宗の重鎮であった誠拙にとって隠居はままならず、京都の相国寺・天龍寺等で活躍せざるを得なかった。そこで誠拙は彼を慕う金井村民に、爪と歯及び写経を入れた壺を与えたと伝えられ、村民は塔を建て、この壺を納めた。この塔は爪牙塔とよばれ現存している。誠拙は禅僧であったとともに、詩歌、茶をよくし、禅画にも秀で「布袋」や「寒山拾得」などが有名である。(横浜市栄区役所掲示より)


玉泉寺所蔵の文化財

  • 誠拙和尚関係資料(横浜市指定有形文化財)

誠拙和尚関係資料

明和三年(一七七六)円覚寺仏日庵の住職である東山周一は、正続院(現円覚寺僧堂)の舎利殿を復旧して、その守護供養の衆僧を永田宝林寺東輝庵に寓居する月船禅慧に求めました。それに応じて来山したのが誠拙周樗(一七四五~一八二〇)です。
翌年、東山はかねての念願であった僧堂の再興を計り、浄妙寺古仏殿を移して正法眼堂(現宿竜殿に当る)としました。誠拙は天明元年(一七八一)にその前版察(現在の師家)に任ぜられ、文化十一年(一八一四)には一八九世住持となりました。
これより先、享和二年(一八〇二)誠拙は、金井の玉泉寺を隠居所とすつ許しを得て、しばしば休息に赴いて忘魯亭を築造するなどし、俗人の教化にも意を用いました。
文化六年(一八〇九)より三度に渉って相国寺・天竜寺などの乞われて上京、相国寺・天龍寺の僧堂をも再興し、文政三年(一八二〇)に天竜寺で示寂しました。
誠拙和尚は、中世叢林の法系が続いていた円覚寺に、近世林下の法系の入る端緒を開いた人であり、永らく絶えていた僧堂を開単して多くの俊秀を育て、寺務に当っては同寺の復興に努めて中興の功を挙げるなど、円覚寺史上特筆すべき禅僧の一人です。
当寺所蔵の誠拙和尚関係資料(絵画・書跡・文書・典籍・工芸品等)は、鎌倉禅宗史を解明するうえで貴重です。(横浜市教育委員会掲示より)

玉泉寺の周辺図